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世界は諸説でできている

有給休暇を使って「つくば」まで行ってきた。
これから起こるかもしれない面白いことのタネを植えに行って、たぶんうまい具合に芽が出てきた。
おかげで頭の中が動物園状態だ。

何が起こるのか?
は、しばし実りの時をお待ちいただくことにして、今日はこの日に会話したことの中から考えたことを書いていこうと思う。

なにぶん、生の情報は扱いが難しいのです。

さて、誰しもが遠足などで一度は「博物館」に足を運んだことがあると思う。自分より大きな生き物の骨や剥製が並ぶ博物館。世界中の動植物が並び、様々な知識が並ぶ歩き回れる大図鑑。

そこには"正解"とされるものが並んでいる。

ところが、それらの正解の後ろには大量の"諸説"が眠っている。博物館という限られた空間(とはいえ、住むには広すぎるが)に“展示可能な正解”だけがある。
それが博物館という空間なのだ。

つまり、博物館という場所は一見すると“世界の本当の姿を展示する空間”に思えるけれど、実は単なる“一番声の大きな意見を並べた空間”でしかないのだ。

いやはや、こう書くとまるで博物館を否定するかのように思えてしまうけれどそんな意図はない。むしろ、かつての時代にフロンティアを開拓した人々が集めたものを並べた博物館こそが、現代のフロンティアになっているのではないか?
というワクワク感しか感じないでいる。

そうでもなければ貴重な有給休暇を使って片道2時間半もかけてつくばまで行かない。

空っぽだった正解の玉座

これは僕の中でのベースの考え方だ。世界からは唯一無二の“正解”が失われた、いや正確には“唯一無二の正解なんかなかった”ことがわかってきた、のだ。

この世で最も大きな権力を持つものの1つである“正解の玉座”は、実のところ空っぽで頭を上げた人々がそのことに気がつき始めているのが今の時代だと思う。

そんな時代に「正解を展示する」ことのなんと虚しいことだろうか。

正解のないことに気がついた時代には、諸説を並べることで人々が持つ「正解の多様性」を高めることこそが博物館の価値になるのではないだろうか。

骨格標本は誰のものか?

博物館に行って、展示されている標本を触ることは基本的にできない。できたとしても、何か特別な催しの時くらいだろう。
だから、僕らはキリンの足が武器になるくらい重たいことを知らない。日常生活で触れる骨と言えば、ケンタッキーフライドチキンの骨くらいなもんだ。

なぜなら、骨格標本には学術的な価値があって貴重だからだ。

だが、誰がそんなことを決めたんだろう?
自然は本来誰のものでもない。
故に誰のものでもある。

骨格標本もまた、自然に由来する物だ。だからアカデミックの世界が独占していいものではない。学者たちがお勉強のために金庫に保管して、人々の目に触れるのはガラスの壁の向こう側だけにしていいものではない。

自然とは、誰のものでもないから、誰もが自由に研究していいもののはずだ。博物館というフロンティアを開拓する鍵はこのガラスの壁にあると思っている。

つまり、何をするのかと言えば、「正解はガラスの壁の向こう側の人間だけが探求できる、という独裁国家のような状態を崩してやろう」という企みなのだ。

書いていて整理された。笑
なるほど、そういうことか。

世界は諸説でできている

幸か不幸か、世の中はカオスになってきている。
巷にはフェイクな理論(そもそも矛盾しているが)が溢れかえり、誤解や曲解がひしめいている。その中に、熟考を経た結果を同列に並べる事の危険性はもちろんある。

一歩間違えば、人類はユダヤ人を虐殺したり、魔女と称して公然と殺戮を行った事例がある。思考は時にどんな病原菌よりも人を殺しかねない力を秘めている。

だけど、だからこそ
私にとっての真実
を真摯に選ぶための姿勢が大事なんだと思っている。

僕がやりたいのは、なにも、博物館に破綻した説明や嘘の解説を並べようという訳ではない。それとはむしろ真逆の行為だ。

目指しているのは、ガラスの向こう側に閉じ込められた「真実を追う権利」の解放に他ならない。一人ひとりが「正解」を「選択」する必要があるくらいに、唯一無二の正解なんかないことがバレてしまった。
だから、だからこそ各々が「私の思う正解」を「検証する機会」をもっと広げる必要があるんだと思う。

それは博物館が持つ豊富な学術資産をもってして初めて成し遂げられる。

私たちはこの世界に生を受けた瞬間から誰もが「この世界はなんなのか?」を探求するチケットを持っているのだ。ちょっくら、このチケットで行ける距離を伸ばすのをやってみよう。

そんな「秘密の会議」をしてきたのでした。

#週1note

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