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『ILLUME』とはなんだったのか:第3回:2度のコンペティション

第2回では、副題である「創造する人のための科学情報誌」という言葉が持った意味と発行部署及び担当者との出会いが生んだ「幸運」ということを解きました。

コンペティションの背景

いよいよ、小出しにしてきた(もったいぶったわけではないのですが)本誌が発行することになったコンペティションについてご説明したいと思います。

このコンペに提出された企画書の写しが、我が家にあったはずなのですが、すぐに見つからなかったので、企画提案者であり本誌の編集人を務めたA氏が1999年7月に記した「ILLUME創刊の経緯」から、当時を振り返ってみたいと思います。

1988年3月、東京電力株式会社(TEPCO)より主要広告代理店7社に対し、企業イメージPRのための<企業情報誌企画>のオリエンテーションが行われた。

このプレゼンに、A氏は東急エージェンシー(TAG)の依頼で参加します。プレゼンの準備期間は2週間。この規模のプレゼンにしては短いと言えます。この設定から、事実上、発注先が決まっているのだろうという予測が立ちます。TAGの担当者もそう思っており、本気でやる気がないため、社内のメンバーを使わず、外注したわけです。

当時、TAGとA氏の会社P社は、こうした企画業務での付き合いが多く、定期的に提案書を提出して対価を得るような仕事をしていました。そのため、TAGはそうした企画仕事の一環として、本件を依頼することにしたと思われます。この辺りも、TAGの本気じゃない加減が見えます。

それもそのはずで、TAG社は当時、TEPCOの仕事を受注したことがなかったのです。コンペへの参加は依頼されますが、その結果は、大抵、電通に発注されていました。だから今回も、そうしたコンペを正当化する人数合わせの参加だろうとたかを括っていたわけです。

オリエンテーションの内容

TEPCOよりのオリエンテーションは4案を提示され、プレゼンテーションは「少なくとも2案」を提出するようにとの条件が提示された。

これを2週間で出せというのが、出来レースぽいわけです。

オリエンテーションとなる課題は、次の4案からなる。
①ヒューマンアメニティ誌
②ファンタジックフューチャー誌
③ライフスタイル誌
④トレンド誌
・発行回数:年4回(季刊)
・発行部数:5万部
・配送費を含む制作予算は1号につき5千万円

年4回で1号5千万円ですから、年間で2億円という広報誌としては、バカでかい規模です。しかも5万部発行。

いくつか企業広報誌の仕事をしましたが、こんな規模の話は、みたことがありません。今ならば、印刷物じゃなくてネットコンテンツになるかもしれませんが、当時は、バブルが始まった頃で、企業が社会に向けて発信することが流行していました。

CI(コーポレートアイデンティティ)ブームがあり、企業のロゴやマークがデザイン化され、現代風に改まり、情報発信をするために広報誌を創刊する、という一連の流れが「ステータス」となった時代でした。

今見ると、このオリエンテーションの内容が馬鹿げたものに見えるかもしれませんが、そうした時代背景と、前回説明した「エネルギー未来開発センター」という新事業の立ち上がりであったことを踏まえて、この提案を見る必要があります。

この時、A氏は、この提案を、以下のように読み解きました。

①〜④の各案に共通する訴求目的は、基本理念として「人々の夢を育てる活力創造産業」であり、具体的には「創造性」「現代性」「活気」「スマート」を表現しながら、「トレンドに鋭敏な企業」として認知されることを目的とする。

TEPCOという基幹企業が「トレンドに鋭敏な企業」と認知されることは、それまでなかったものと思われます。21世紀の今はまた別の意味でないかもしれません。

しかし、このコンペが開催された1988年3月は、東日本大震災の23年前であり、原子力発電についても反対派はあっても、社会的にネガティブな存在とは言えませんでした。

東京電力が、TEPCOという名称とロゴを使い始めたのが1987年10月1日のことです。そこで、新しい企業の姿を求めて「未来に向かっての東京電力のCIを構築することを目的」として、「東京電力を代表する企業情報誌」を莫大な予算をかけて発刊するというコンペティションを開くに至るのですから、時代というのは恐ろしいものです。

A氏一世一代の企画

このオリエンテーションを見て、A氏は提案された四つの案がどれも本質的ではないと気づきました。A氏は、もともとマーケティングの専門家であり、20年近く前、トヨタ自動車のシンクタンクである現代文化研究所の主任研究員としてフィランスロピーという概念を日本に導入し、独自の企業広報誌を提案した経験があったからです。

そして、もう一つ、A氏には作りたいものがありました。

かねてより、科学・技術とヒューマニズムの交叉領域を存立基盤とする「科学啓蒙誌」の必要を痛感しながらも商業ベースの刊行は困難であることから、企業によるフィランスロピー活動の一環である「社会貢献誌」の発行を構想していたP社代表A氏は、この機をとらえて東京大学理学部教授K氏に相談し、協力を要請した。

つまり、もともと自分が作りたいと思っていた「科学啓蒙を目的とする企業による社会貢献誌」をこの機会に企画してしまえと、いうことにしたわけです。そして、その企画を作るために現役の東大理学部教授であるK先生の力を借り、現代文化研究所時代にトヨタの広報誌で付き合いがあったグラフィックデザイナーのM氏と同じ広報誌でも定評がある翻訳会社を営むE氏の協力を募ったのでした。

そしてまとめられたのが、「創造する人のための科学情報誌」という企画案でした。

ただし、この企画案は前出のオリエンテーションに対して、「東京電力を代表する企業情報誌」であり、「未来に向かっての東京電力のCIを構築することを目的とする」ことから、TEPCOの“根本的なニーズを捉えるべき”として<1誌案>を提出するものであった

ということから、この企画案は提出直前に大揉めに揉めました。オリエンを無視した企画なわけですから、TAGから見れば大問題です。いくらやる気のない負け戦と言っても、クライアントの要望に沿ってないものを出すわけにはいきません。

しかし、どうせ負けるなら相手の土俵に立つよりも、こちらの土俵に引き込もう、というようなA氏の説得(というか口車)にTAGが折れ、他に出すものもないわけですから、内容としては素晴らしいということを認めた上で、提出することになったそうです。

第2回オリエンテーションの実施

こうして、第1回目のプレゼンで、オリエンを無視した企画を出したTAGチームは、TEPCOのお目玉を喰らうかとお思いきや、エネルギー未来開発センター所長・K氏の十分なご理解を得て、基本的には了承されます。

二人の会話で印象に残るものが記されています。

「超視覚時代に漫画などの方向ではなく、なぜ文字を中心とするのか」という(K氏の)問に対してA氏が「科学の解説は文字による論理的な記述を主とする以外に方法はなく、また漫画を描ける科学者はほとんどいない。そしてなによりも、知的なしょさんが漫画などの安易な方向に向かおうとする時代の流れに、あえて文字で棹さしたい」と意図をあらわしたところ、K氏は「私も全く同感だ」と述べられたことだった。

これが幸運でなくて何を幸運というでしょう。

前回も書いた、理解ある担当者に出会えた幸運が、本誌を刊行するに至る道だったのです。

しかし、これで済んだわけではありません。

TEPCOとしても、オリエン通りに提案してきた各社を無視して、この企画に決めましたとはいかないわけです。この頃は「公平性」ということをなによりも大事にする会社でした。いや、K氏が何よりも「公平を期し、より優れた業者を選定する」というお考えだったからでしょう。

「創造する人の科学情報誌」の主旨で第2回目のオリエンテーションが行われ、参加した企業は出版社4社を加え11社になって、6月にコンペが開催されました。

掟破りが結果的に功を奏した

ここで、またも、A氏はオリエンを捻じ曲げ、独自の提案を出します。

年4回発行、発行部数5万部というオリエンに対して、年2回発行、1万5千部とすることで大幅に予算を削減しつつ内容を充実させ、さらに編集顧問会議の設置を提案したのでした。

この時、TEPCO社内で、この企画に年間2億円という予算を当てることに疑念が出ていたというのは、後で聞いた話です。

しかし、そんなことを知らないはずのA氏がなぜ予算削減と年2回という刊行サイクルを提案したのか。

実は、予算が潤沢すぎることに疑念があったA氏は内内にTEPCO内部の様子を調べていました。そこで、どうも反対派があることを知ったのです。ただ、それよりも、自社に年4回刊行できるだけの編集体制を組む余裕がないことが問題でした。年4回刊行の苦労をトヨタの広報誌で経験しているだけに、なんとか年2回刊行にしたかった。そのためには、編集に時間がかかる仕組みを設けたい。そして、それが本誌の正当性を担保するものにしたい、そう考えた結果、編集顧問会議という仕組みを思いつき、そこに自分の意を汲んでくれる大物を据えたいと考えたのでした。

この苦し紛れの提案も、予算削減を検討する必要があったTEPCO側に好評となる幸運がさらに働き、第2回コンペから半年近くが経った11月にA氏の提出した案に決定しました。

こうして、のちにILLUMEとなる「創造する人のための科学情報誌」の発行が決まったのでした。

創刊は1989年4月と決められ、準備が進むわけですが、その辺りは次回に。




サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。