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昭和も遠くなりにけり、という言い回しについて考えてみる

今年は昭和95年に相当するわけですが、遠くなったものです。

そんな中で、昭和を知らない世代が、昭和のアイドルや昭和の歌謡曲が好きになったり、昭和をめぐる言説が出てきたりするのは、やっぱり停滞する社会が、躍動した時代に憧れるからかもしれないな、と感じます。

明治も遠くなりにけり、とは

実は、明治と昭和初期の関係が、そういうものだったと思われます。

中村草田男の俳句「降る雪や 明治も遠くなりにけり」という句がホトトギスに掲載され、一躍「明治も遠くなりにけり」という言葉が流行したそうです。

この句が読まれたのが、昭和6年。草田男が母校である青山の青南小学校を訪れたときの句だそうです。

この句は昭和6年、大学生だった草田男が訪問した際に詠んだもので、草田男の代表句です。句碑も昭和52年、青南小創立70周年記念として建立され、除幕は草田男自身の手で行なわれています。(略)20年ぶりに母校を訪れ変わらぬたたずまいに安堵しますが、雪が降り出すとともに校庭に外套を着た子どもが現れるのを見て、着物に下駄だった自分のころとの隔たりを感じたのでした。

これは、明治時代は着物に下駄だったのが、昭和になって洋服になったか、というような単純な話ではなく、草田男は、精神の話だったと言っています。

この本の「はじめに」で、解説されていました。

明治三十四年(一九〇一)生まれの草田男は、この句の成立について触れた後、こう述べている。
(略)
つまり遠くなったと感じたのは、明治という時代の「精神」だった。自ら「明治人」としての誇りがこの句に込められていたのである。さらに草田男は「日本人が真に頼もしかったのは明治三十七、八年頃までであったという声も聞かれる」とした後、次のように結ぶ。
「本質的な意味においては、ゆめゆめ『明治は遠くなりにけり』であっては、相ならないものなのである」

この草田男の解釈が掲載されたのが、明治100年にあたる1967年でした。

句の成立から三十六年余りたった昭和四十二年(一九六七)五月、明治神宮の社報『代々木』に「『明治は遠く…』の句に就いて」という巻頭随想を寄せている(新人物往来社「別冊歴史研究 〈神社シリーズ〉明治神宮」〈平成四年〉に再録)。

そして、草田男がいう、日本人が頼もしかった明治37、8年というのは、1915年ごろということになり、第一次世界大戦くらいまでということになるでしょうか。多分、日清日露を超えて、日本が勇躍、世界の先進国となっていく時代のことを指しているのでしょう。

昭和になり、明治の精神を懐かしみ、また、その精神は忘れてはいけないと感じる、ということは、実態としては「忘れられつつある」と感じているということに他なりません。

そして、その明治の精神とは、「恥を知れ」だったと草田男は語っているのです。昭和になり、句を読んだとき以上に、この文を書いた戦後になり、「恥を知らない」人が増えたと明治人の草田男は感じていたのでしょうか。

その辺りの精神を称揚する小説としては、司馬遼太郎の「坂の上の雲」があるかと思います。

これも、昭和になって、明治の精神を称えた名作と言われる小説です。

でも、司馬遼太郎の本は気を付けないと、司馬史観に洗脳されるので、そこに書いてあることだけではなく、書いてないことも読まないといけないんですよね。所詮は、フィクションなので。

それには、この本なんかいいです。

昭和史の第一人者は、いかなる本を読んできたのか?本書は、近現代史研究の第一人者が、日露戦争から戦中・戦後に至るまでの歴史を深く理解する上で名作22篇を厳選し、作品を読み解きしつつ、歴史の実相に迫ったもの。特に読みどころは、司馬遼太郎著『坂の上の雲』に関する80ページの論考。「こんな読み方があったのか」「こんな歴史があったのか」と読書の面白さを味わうとともに、知られざる歴史を知ることができる。

話がそれましたが、明治は遠くなりにけり、というのは、時間=物理的な遠さ以上に、精神的な遠さを感じたことが重要なのだ、というのが、草田男の指摘だったと言っていいでしょう。

昭和も遠くなりにけり

草田男が明治を遠くなったと感じたのは、昭和6年で彼が30代の時でした。この時、明治が終わって20年ほど。明治70年にもなっていません。

そして、その解釈を書いたのは、まさに明治100年の年。彼が60代になってから。その間には、大東亜戦争があり、戦後の高度成長があったわけで、ますます明治は遠かったはずです。

そして、今、私たちから、物理的には、昭和が終わって、31年経ってしまいました。草田男が明治は遠くなりにけりと読んだ明治と昭和の間よりも、さらに遠くに来ています。

あと5年もすれば、昭和100年です。

まさに、草田男が感じたように、昭和を遠く感じても仕方がないと言えるでしょう。

では、その遠さは、物理的なものだけなのでしょうか。

草田男が、明治精神として挙げた「恥を知れ」に相当する、昭和精神とは何かあるのでしょうか。

そう考えたときに、同名の書を見つけました。

昭和の話ならお手のもの。50年続く「東京やなぎ句会」の句友たちの動向を中心に、多くの藝人や俳優たちが歩んだ人生を描く

これ読みたいと思ったんですが、ちょっとお高い上にKindle版がありません。

でも、そうそうたる昭和を代表する芸人と通人が出てくるようなんで、昭和の芸能を考えるには必須の本だと言えそうです。読まんといかんかなあ。

この本を読まずに語りますと、明治が、武士の名残を残したエリートの時代だとすれば、昭和、特に戦後は明治から築いてきたものが崩れ去った後に生じた高度成長期を支えた中流階級の時代だったように思います。そして、そこに代表されるのは、江戸期に生まれ明治期を超えて戦後再興した大衆芸能(落語、漫才、歌舞伎、新劇など)とテレビの時代。

明治の文化については、まだ論考には達してませんがこんなことを書きました。

今や、テレビの力が薄れ、中流階級が没落し格差の時代となっているわけで、そんな平成から令和に、昭和という中流階級の時代を懐かしむ風潮があるのは、そこにあふれていたエネルギーに対する希求なんじゃないですかね。

そこに、昭和も遠くなりにけり、という言葉が似合う令和が見えてくるように思います。

もう少し考えてみたいと思います。

(トップの写真は、青南小学校にある草田男の句碑です)





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