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『ILLUME』とはなんだったのか:番外編:私の場合

創刊からの流れと、構成やデザインの変遷などについて、徒然なるままに書いてきましたが、閑話休題。

また、制作方法もアナログからデジタルへのシフトが進んでいきます。原稿が手書きからワープロになり、ワードデータに変わっていきます。レイアウトも手書きの指定紙による入稿から、クォークエクスプレスさらにインデザインとレイアウトソフトを利用したものに変わっていきます。

ILLUMEへの参画

全て知っているかのように書いてきましたが、私は、6号から参画して、約15年携わったので、創刊にも休刊にも居合わせていません。途中、編集長という役割名をいただいたこともありますが、実質は、編集小間使い全般でした。

P社には、1989年1月1日入社なので、今とはなっては貴重な昭和64年1月1日付の保険証を持っていましたっけ。

しかも、当初はマーケティング部に配属されて(というほど大きな会社ではなく、マーケ担当の私の上司と、出版社出身の編集担当のお姉様と、二人のサポートをするお姉様の3人が主な社員で、あとは社長のA氏と経理全般のおじいさんがいるだけの会社でした)、ILLUMEのサイエンスシリーズ担当編集者は主に在宅勤務で出勤は忙しくなってからで、何をしているかよくわからない感じでした。

私は、前職で社内報の制作などをしていたので、ある程度編集作業がわかることもあり、バブルが収まりかけてきてマーケティング部が暇になりつつある中で、佳境になった編集作業のお手伝い(文字校とか)はしたものの、まる2年はILLUMEとは関係ない生活だったのです。

そのうち、マーケティングの方に若手が入り、どうも面白く無くなってきたこともあって、ILLUMEへの配属替えを社長のA氏に直談判したというのが参画へのきっかけでした。

横で見ていると面白そうなんですよね。やはり編集は。

会社の漂流で位置付けが変わる

ところが、それから7〜8年は仕事としては楽しかったんですが、年2回発行に注力していたのでは会社としては利益が大きく出るものではなく、他の編集業務で売り上げを立てていかなければならなくなりました。

南青山のマンションの一室で部活のようにワイワイ編集作業をしている夢のような時期が過ぎて、資本関係のある親会社の指示で、品川に移転したり、芝浦に移転したりと、会社が漂流し出します。20号を出す頃(1998年)には、ついに、親会社の一部門と合併することになりました。

こうして会社が大きく舵を切る中で、合併後の新会社の中では、ILLUMEの位置付けは心許ないものになり(まあ、年間4000万円の売り上げがあるといっても、利幅が大きいわけではないので)、私も中間管理職としてILLUMEだけ見ていれば良いというわけではなくなりました。

この頃はしんどかったですね。

10年記念ということで企画した20号の編集が大変だったあと、2000年記念号として2号にわたって大型企画をやることになり、さらに、20号につけた特別付録「20世紀に起きた科学の主要な発見・発明とその関連図」をCD-ROMにしてTEPCOの創業120周年記念事業である「電気の史料館」の開館記念品とするという話が出て、2001年12月の開館に向けて、その制作も同時に行うというオーバーワークのなかで、死にそうになりながら仕事をしていました。

でも売り上げと結果を同時に求める中で、結局、2000年には不眠症で医者に通うことになり、世田谷から新宿に引っ越すことでなんとか体調を立て直したのですが、そういう体調不良で仕事をしていると、やらかすもので、2001年のCD-ROMも納品後にエラーがあることがわかって、修正版を至急製作したりして、利益にはならなかったかなあ。

20号記念号以降のこと

世の中は、2002年はサッカーのW杯で大騒ぎだったんですが、その裏で、我が社のような広告制作会社は、売り上げが激減し、真っ青になっていました。サムライブルーどころか、顔がブルーだよってね。

それでも、2001年のCD-ROMなどでTEPCO内の評判はよく、少し盛り返したんですが、こちらの編集体制はますます逼迫してきて、アシスタントを入れたり、若手を引っ張ってきたり、ただでさえ利益の薄い仕事に人数がかかるようになっていきます。

2001年と2002年で98年に始まった新会社の体制が大きく変わり、2003年には、上の人たちがいなくなってしまい、私も会社の取締役にならざるを得なくなり、現場仕事だけじゃなくなってしまいます。

これがA氏には面白くなかったんでしょうし、こちらも会社のことがのしかかってくるので、結局、ILLUMEに関わり続けていられなくなってしまいます。2005年の34号あたりまではなんとか現場もやったんですが、結局、私は編集長の座を退き、会社としては、社内での制作を諦め、ベテラン編集者とA氏とADのM氏のチームに丸投げする契約に変わったのでした。

そんなP社も親会社の裁定で2007年いっぱいで解散し、役員として会社を立て直せなかった私は社会に放り出されました。

そしてILLUMEも40号記念号を出せずに休刊してしまうのでした。

20号記念号の付録という思い出

その後は、私は大型研究プロジェクトのマネージャーに転職することになり、また体を壊し、今に至るわけですが、その話は置いておいて。

楽しかった話としては、大学時代からの友人であるY君と一緒に作った20号記念号の付録の話をしましょうか。

A2サイズのポスターに、1900年近辺から(第1回ノーベル賞が、1901年に授与されるので、その研究を始まりとして)現代の科学につながる発明と発見を関連のあるものは矢印で連関して、2000年近くまで、物理学、化学、生物学、宇宙科学・地球科学の分野を横軸に、まとめたものです。

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この項目の選定をカリスマ塾講師であるY君に夏休みの宿題にお願いしたのでした。

物理学と関係の深い宇宙科学を一番左端において、

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物理学と化学、化学と生物学、生物学と地球科学と連関するものを見ていって、また宇宙科学に戻るという横軸は、今見ても、秀逸なまとめ方だったなと思います。

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のちにノーベル賞を受賞するニュートリノの話も入っているし、内分泌攪乱物質とか、クローン羊のドリーとか、よく拾ってると思います。

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のちのノーベル賞の話題は、だいたい拾えてるんじゃないでしょうか。

参考文献も小さな文字で入れてますが、科学の辞典関係は網羅して、新しいものを拾うのが大変でした。評価が固まらないと科学の世界では大きく取り上げないので、外部の人間から評価するのが難しい。

なので、4人の若手の大学教授に監修に入っていただき、項目に問題がないか目配りしていただいて、本誌でも執筆いただきました。

これが作れたのは、本当にY君のおかげですし、まとめたデザイナーさんも大変だったと思います。校正した私も大変でしたけど(笑)。

ILLUMEの偏執的な編集が最もよく表れているのは、この付録だったと思います。本誌やりながら、これを編集するのは大変でした。

これをCDーROMにするのはもっと大変だったのですが、それはまた別の機会に。


サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。