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『ILLUME』とはなんだったのか:第4回:編集顧問会議の設置

第3回は発刊に至る2回のコンペ開催の裏側についてご説明しました。その背景には、当時のCIブームや広報誌ブームがあったことも触れました。

編集顧問会議を置いた意図

2回のコンペを経て、A氏の企画で創刊することが決まった「創造する人のための科学情報誌」ですが、まず最初に行われたのは、編集顧問の委嘱でした。

前回説明したように、編集顧問会議の設置はA氏が本誌の「せいとうせい(正統性及び正当性)」の確保のために重要だとして提唱したものでした。

この「せいとうせい」とは、東京電力という公共性の高い企業が発行するものが一企業の提案だけで内容決定するわけにはいかないという反対派の攻撃が出ることを予見し、企画内容が科学の専門家の声を踏まえていること(正統性)、科学以外でも錚々たる知の巨人のアドバイスに基づいていることを示すこと(正当性)で、社会に向けて提示するに足る企画であることを証明するというようなことでした。

他の企業広報誌でも編集委員会などという名称で専門家を集めた組織を作っている例があります。しかし、その多くは、年に1度、誌面の企画よりも皆さんのお話を伺う会で、出席する会社のお偉いさんが喜ぶためにあるような会であることが通例でした。

ところが、ILLUMEの編集顧問会議は年3回開催され、そのうち2回は前号への批評・ご意見を伺い、次号の企画内容を具体的に検討し、時には執筆者への要望や編集側への要請などもいただく、真面目かつ本格的な編集会議でした。後1回は、自由討論として長期的な企画へのアドバイスや、時に東京電力という企業への意見や要望などをいただくこともありました。

編集顧問に就いた方々

こうした役割を果たしてくださった方々は、以下の通りです。

第初年度(1988〜89)(五十音順、敬称略)
磯崎新、岩男寿美子、小林俊一、村上陽一郎、山崎正和

構成として、理工系2名、人文系2名、科学哲学者1名として候補を挙げ、折衝した結果、これだけのメンバーを集めることに成功したのでした。

初年度の編集顧問がどういう方になるかは、A氏にとって本誌を実現する鍵となることは間違いありませんでした。

企画内容を評価された裏で、あまりにも高等で理想的な提案内容に対して「A氏は詐欺師だ」「あんな企画が実現できるわけがない」という揶揄が他社の担当者からTEPCOに囁かれていたからです。

しかし、A氏には編集顧問の選択において、ある種の成算がありました。

まず物理学者の小林俊一先生は、企画のお手伝いをしてくださったくらいですから、間違いない。しかも、小林先生はA氏の中学・高校時代からの親友であり、これまでも多くの企画の指導をしてくださっていました。

しかし、小林先生もただ親友の仕事だから手伝ったわけではありませんでした。小林先生としても東京大学理学部教授(当時)としての気概がありますし、お立場から変な仕事を手伝うわけにはいきません。小林先生にも、この「創造する人のための科学情報誌」という企画にかける想いがありました。

前回も引いた「創刊の経緯」に、その点も記されています。

「第一に、学生の理科離れと科学の人文系との乖離は私自身の課題であり、これを助けてくれる啓蒙活動に手を差し伸べるのは私自身の問題だからであり、第二に、日本の科学ジャーナリズムの驚くべき貧困とこれに対する科学者の無関心を危惧するから」

ということで、企画作業のために2週間を費やしてくださったと語っています。

また、劇作家・評論家の山崎正和先生はA氏の従兄弟でもあります。しかし、山崎先生もまた従兄弟の依頼だからといって滅多なものを受けるわけにはいきません。しかし、実はA氏の親友であると同時に信頼に値する学者であることを知る小林先生が企画に携わっていることと、さらにA氏の本気を受けて、ご協力いただくことを確約されました。

建築家の磯崎新先生は、A氏とは奥様の宮脇愛子先生を通じて長年の付き合いがありました。いつか一緒に仕事をしようという約束をしたまま長年経っていたことから、企画内容を聞いて即諾してくださいました。

心理学者の岩男寿美子先生は山崎先生のご紹介で、当時慶應義塾大学教授。

科学哲学者の村上陽一郎先生は、磯崎先生のご紹介で、当時東京大学教授。

お二人もただ紹介だからではなく、本誌の意図と目指すものをご理解いただき、ご助力いただくことになったのでした。

こうして周囲の声をものともせず、編集顧問が集結したのでした。

編集顧問の退任という危機

しかし、2年経ったところで、磯崎新先生が当時、バルセロナオリンピックの主会場の設計監理に多忙を極め、過労から健康を損なわれたことを理由に「顧問としての責任を全うできない」として退任されてしまいます。

また、岩男先生が「やはり理系の企画を考えるのは荷が重い」という理由で磯崎先生と同時に退任を申し出られます。

せっかく揃った編集顧問が、1期2年で2名も退任されるという危機が訪れたのです。

ILLUMEにはこの後も何度か危機が訪れ、その度にA氏が粘り腰を発揮するのですが、その最初の危機が編集顧問の退任でした。

第2期顧問の就任と出世

しかし、この時、A氏には副案がありました。何度か、顧問会議での岩男先生のご発言が他の先生方と噛み合わないのを不満に思っていたA氏は、独自に女性の編集顧問候補を検討していました。その候補が、中村桂子先生でした。

生物学者の中村桂子先生には、3号で「生命誌研究館」の構想についてご執筆いただいていました。当時早稲田大学教授として、この生命誌研究館の構想を実現するために企業との交渉を進めていた中村先生も、本誌の存在に驚き、執筆後も注目してくださっていました。

A氏の依頼に中村先生が快諾いただいたのも当然のことかもしれません。

そして、磯崎先生に代わる編集顧問には、理系といっても工学系の方が相応しいと考えていたA氏は、東大理学部教授である小林先生に相談します。

小林先生からいただいた候補者が、吉川弘之先生でした。

吉川先生は、当時、東京大学工学部長に就任されていましたが、ご専門が「一般設計学」という馴染みの薄い分野でもあり、一般的にはそれほど知られた研究者ではありませんでした。

しかし、小林先生からその見識の広さと人物の高潔さを聞いたA氏は、磯崎先生の後任にしては地味だという反対意見を抑えて、吉川先生に委嘱するのでした。

そして、吉川先生はその後東京大学総長になるのですから、この時、編集顧問に委嘱したのは正解だったということになります。

そして、この5人の編集顧問が揃った編集顧問会議は、ILLUMEがなくなるまで続きました。

第2期:91年以降
小林俊一、村上陽一郎、中村桂子、山崎正和、吉川弘之

しかも、編集顧問は、皆さん、就任後、どんどん社会的な地位を上げていかれます。

小林先生は、東京大学理学部長から理化学研究所理事長に、中村桂子先生は生命誌研究館を立ち上げ、副館長、そして館長に就任されています。吉川弘之先生は、東大総長の後も日本学術会議会長、国際科学会議会長など要職を歴任されます。村上陽一郎先生は、東大からICU教授を経て東洋英和大学学長にご就任されています。山崎正和先生は、大阪大学教授から東亜大学学長に就任されています。

編集顧問会議という延命装置

ILLUME編集顧問は、出世すると言われたものです。

もちろん、編集顧問になったこととは関係のない、皆様のお力なのですが。

このご出世は喜ばしいものではありましたが、日程を調整する立場から言えば、辛いものになりました。

顧問会議の日程を決めるのは、年々、大変になる一方でした。

しかも、顧問会議への東京電力を代表する出席者も、エネルギー未来開発センター長から営業部長、営業担当取締役、副社長とどんどん偉い方に変わっていきました。

日程調整はますます大変になります。会場は毎回同じ場所(ホテルニューオータニ)なのですが、3ヶ月先くらいを選んでも、直前で色々と調整が必要になることは常で、全員が参加することができる会も減っていきました。それでも、皆さん、辞めたいとはおっしゃらなかったのは、編集顧問会議での会話が実に楽しいものだったからだと伺っています。

実は、この編集顧問会議への出席者が偉くなっていったことが、ILLUMEの数度の危機を乗り越える一つの要因となっていきました。社内の偉い人が関わるほど、その事業は潰しにくいものになるからです。

ILLUMEがバブルの真っ最中1989年から、社会の急変の中で約20年続いたのは、この編集顧問会議の位置付けがあったことは間違い無いと思われます。

ILLUMEが続いた理由

バブル時期に創刊した企業広報誌の多くが、2号から3号で潰れ、バブル崩壊後は社会貢献という声も枯れがちになる中で、ILLUMEが続いた理由は、いくつかあります。

一つは、広報部ではなく営業部が発行していたこと。広報主導ならば、真っ先に潰されていたでしょう。次に、公立中高の理科の先生に配布するという科学離れを防ぐという目的がTEPCOにとって消し難いものであったこと。そして、編集顧問会議の存在ではなかったかと思われます。もちろん毎号、真剣に企画し、実現してきたからだという思いもありますが。

また、編集顧問会議は、同席するわたしたち編集スタッフにとっても実に楽しいものでした。目の前で錚々たる面々が真面目に、時に愉快そうにディスカッションする姿は、まさに知的興奮の現場に直面する思いでした。

A氏は「創刊の経緯」を以下の言葉で締めています。

以上、約12年間にもわたる編集顧問による各ディシップリンを超えるディスカッションがもたらした、科学技術とヒューマン・ファクターの関わりに於けるパラダイムシフトとヴィジョンは、常に私たち編集スタッフの貴重この上ない道標であり、同時に編集に献身してきたスタッフ個々が“生きるに値する道”を歩んで来られた幸福でもありました。

これは、15年にわたって本誌の編集に携わった私にとっても同感であり、編集顧問会議はまさに幸福な時間でした。

編集顧問会議で決定されたこと、覆されたことはたくさんありますが、その辺りはまた次回に。

サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。