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とても一人分の人生とは思えない:西和彦「反省記」を読んで(続)

昨日書いた記事の続きですが、タイトルを改めました(笑)

昨日は、話の入り口まで紹介し、人物紹介とか、目次とか、はじめに、などについて書きました。導入部分という感じです。

私のパソコン体験から

私が初めてパーソナルコンピューターというものを知ったのは、大学4年生の時。1979年でした。

当時、私は、卒論を書くために質問紙法という方法でデータを取り、それを解析しなければなりませんでした。早い話がアンケートで答えてもらった内容を数値化し、それを先行研究と比較して論文にしようとしていたわけです。

それには、分散分析という手法を使う必要があり、その頃、筑波大学では、その手の計算は学内に1台しかない日立製の大型コンピューターの利用申請をして、FORTRANという言語でプログラムを組み、それをパンチカードに記して、大学に提出。プログラムが間違っていれば弾かれますし、あっていてもデータの読み込みのために作ったパンチカードが正しいかどうかの検定は事前にできず、結果が出てから、やり直しとなることもしばしばだと先輩方から聞いていました。

つまり、ものすごく時間がかかるわけです。

私は、週に1度、水曜の1限の体育と卒論しか大学に行く用事がないので、筑波のアパートを引き払って、東京でバイトして卒論の追い込みで働けなくなる時期のためのお金を貯めていました。時給が全然違いますから。

そして、ゼミに行かずに卒論を書くという無謀な試みをしていたので、研究室のコンピューターを使うということもできなかったのです。

そんな私に、大学の演劇部の先輩で生物系の大学院に行っていた方が、NECのPC8001というのを買って、しかもBASICというプログラム言語を使えば、分散分析のプログラムを書くのは分けないと豪語したのです。

これは、渡りに船というもので、先輩に夕飯を何度かご馳走するという契約で、卒論用のデータ解析をしてもらったというのが、私の初めてのパソコン体験です。この時も、自分では触っていませんでしたので、まだBASICの何たるかもわかっていませんでした。

大型コンピューターと同じことができるBASICに驚嘆

でも、日立製の大型コンピュータに順番待ちせずに済んだことが助かったと同時に、これはとんでもないことが起こったものだと思ったものです。個人が持っているパソコン(その先輩は別に金持ちの息子なわけでもなく、本当にバイト代を貯めて買ったのですから)で大学に1台しかない大型機と同じことができるようになるなんて、コストパフォーマンスが違いすぎます。

大学の必修課程(当時の筑波大学のカリキュラムでは情報という授業で必修でした)でFortranを教えていたのは何だったのか。BASICでいいんじゃないのか?

このPC8001に搭載されていたBASICを作ったのがビル・ゲイツであり、それを日本に移植したのが西和彦だと知るのは、それからだいぶ後のことです。

帰国すると、すぐに株式会社アスキー・マイクロソフトを設立し、僕が社長に就任。NECにBASICの売り込みを始める。最初はまったく相手にされなかったが、それで諦める僕ではない。毎週のように、新たな提案を持って担当者のもとを訪れ、説得に説得を重ねた。
それが実を結んで、1979年に発売される日本初の8ビット・パソコン「PCー8001」に、僕の提案でカスタム化したマイクロソフトBASICが採用されることになった。この「PCー8001」が空前の大ヒット商品となり、日本にも本格的なパソコン時代が到来することになる。

PC8001は西和彦伝説の入り口に過ぎない

この前にすでに、月刊I/ Oを創刊し、そこから別れて月刊ASCIIを創刊し、アメリカからソフトを輸入して日本の代理店となりというような多彩な仕事をしていた西さんは、まだ20歳そこそこ。

ビル・ゲイツと出会い、マイクロソフト・アスキーを作り、マイクロソフトの副社長となっていくのが、20代のことです。

この後、西さんは日本中のPCメーカーと渡り合います。

そして、僕は、いくつものパソコンの企画、設計に参画した。
 NECパソコン「PC-8800」
 日立パソコン「BASIC MASTER L3」
 沖電気パソコン「IF800」
 IBMパソコン「5510」
 EPSONのポータブルコンピュータ「HC-20」
 京セラのOEMによるハンドヘルド・コンピュータ「タンディ M100」「NEC-8201」「オリベッティ M10」などなど。

そして、その仕事を通じて、多くの経営者とも知り合います。

NECの関本忠弘社長、富士通の山本卓眞社長、ソニーの盛田昭夫社長、松下電器(現パナソニック)の城阪俊吉副社長、京セラの稲盛和夫社長、キヤノンの酒巻久社長……。若い人にはわからないかもしれないが、みなさん当時の日本を代表する経営者だった。そんな方々も、僕の話に耳を傾けてくださったのだ。たかが、20歳そこそこの若造なのに、だ。ありがたいことだった。

それは、マイクロソフトの後ろ盾というよりも、当時、西さんのようなビジョンと情報網を持っている人が他にいなかったからだと看破して居ます。

あのとき、本場アメリカの情報ネットワークの「入り口」に立っていた日本人は、少なかった。僕は、アスキーを創業する前(ビル・ゲイツと出会う半年以上前)から、アメリカの情報ネットワークへのアクセスを続けていた。そして、その情報ネットワークから、常に最新の「情報」をインプットし、その情報をもとに「理想のパソコン」のビジョンを描いていた。だからこそ、僕の提案には魅力があったのだと思う。

これは間違いない事実だろうと思います。そして、そうしたことに敏感な人は、大企業に限らず中間管理職ではなく、トップクラスの人間だということです。

西さんの業績は、サイトにまとめられていますが、改めて見ると、これが一人の人間の手がけたこととは思えません。

EthernetもTCP/IPも、GUIもMPEGも西和彦です。

鬼才・西和彦を育てた家系

下から話を持って行っては潰れていたかもしれない西さんのビジョンと情報は、トップと話をしていたから実現したのではないでしょうか。そして、そのために、西さんは飛行機ではファーストクラスに乗り、日本では会食を欠かさなかったと言います。

こうしたお金の使い方ができるところがまた、日本人離れをしたスケール感のある行動力と決断力なのですが、それは多分、生まれ育った環境にあるのではないかと思いました。

西さんの生家は、母方が創業した須磨学園という教育機関を経営していました。現在では、妹さんが理事長で、西さんも参画していますが、教育者のお母さんと銀行マンから学園の金庫番となったお父さんの間に育ちます。

お金の使い方に躊躇がないのは、使えるお金があったからではないかと思いますし、自由な家風が影響しているのではないでしょうか。

例えば、東大受験に失敗して、予備校に通うときのエピソードに現れています。

予備校が開講するのを待つだけだったある日、朝8時過ぎからボーッとテレビを見ていたら、NHKで「東大に一番近い予備校」が紹介されていた。その番組のキャスターは、「東大生の半分は、この駿台予備校から来ています」と言った。そうか、大道学園より駿台予備校のほうが東大に近いんだな、と思った。そして、「来年度の学生を募集する最後の試験は明日。申し込みの締め切りは今日の夕方です」というアナウンスを聞いた。
 画面が切り替わって別の話題に移った途端、僕は隣で一緒にテレビを見ていた父親にこう言っていた。

「僕は、この駿台予備校に行きたい。これから東京に行ってくる」

父は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「よし、行け」と言って、電車代と当座の費用を渡してくれた。9時過ぎには家を出ていた。新神戸駅を10時過ぎに出る新幹線に乗ったので、東京には14時頃に着いた。お茶の水の駿台予備校の玄関脇でスピード写真を撮って申し込み用紙に貼り、必要事項を書き込んで提出した。

試験は翌日、発表は翌々日だった。

この思いつきと行動力もすごいけど、それを許すお父さんもすごい。

実は、随所で、お父さんのサポートがあることが作中でもわかります。

結局、「駿台予備校に行く」と自宅を出てから、一度も神戸に帰ることなく、東京での生活が始まった。これ以来、僕の生活の本拠はずっと東京かアメリカだった。つまり、両親との生活は、あの日、朝9時過ぎに家を出た時に終わったのだ。

この辺りもドラマチック過ぎて、目を疑う話ですが、本当なんだから仕方がないですよね。

天才・鬼才・凡才、その全てだった西和彦

結局、東大には、この年も受験で失敗し、早稲田大学に入学するのですが、そこで、西さんは思います。

自分は天才ではない。

僕は東大出の錚々たる人たちと勝負して勝つには、集中力という武器しかないと思った。ひらめきや頭脳で勝負することはできないが、ある発想が湧いたり、ある決断をした時に、それを実現する粘りというか、気力、集中力だけは人に負けないという自負があった。

後に、アスキーがCSKの支援を受けて再建する際に、この東大への想いが記されています。東大出の人たちに自分のプロジェクトが潰されたことを書いているのは、ご本人はどこまで意識していたかわかりませんが、東大への恨みのような、東大出には負けないというような想いだったように読めました。

西さんは、自分では天才ではないと言ってますが、やはり、20代の活躍は、天才型のヒラメキとそれを具体的に形にする高い能力に支えられた時代と言えるでしょう。

そして、マイクロソフトとの決別の後、アスキー上場などで経営者として采配を振るうときの30代の西さんは、鬼のようだったという点でも鬼才と言えると思います。

そして、投資が失敗し、バブルがはじけ、アスキーはCSKの傘下に入ります。ここで、大川功さんの「奴隷」になると決めて師事したときに、大川さんに「あんたも早よう凡才になってみたらどうや」と言われた後の40代。

全てを経験して、教育者となった50代。

そして、これから大学開学を目指す60代。

・「西和彦の60年」をまとめた回顧録が社会評論社から年度内発売することが決定。このホームページの「経歴」「業績」を中心としてそれに肉付けをしてまとめている。
第1部は0〜15歳、よゐことして。
第2部は15〜30歳、エンジニアとして。
第3部は30〜45歳、経営者として。
第4部は45〜60歳、教育者・研究者として。

この本も読んでみたいですね。比べると面白そうです。

エピソードがあり過ぎて纏まりませんが、マイクロソフトをめぐる話、アスキーをめぐる話、それぞれでも1冊にできそうなことが、この1冊に込められています。

アスキー再建のために中山素平さんと出会うとか、もうすごすぎる。

その西氏が、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、中山素平氏、大川功氏、稲盛和夫氏、孫正義氏など、超大物たちと織り成したリアル・ビジネスの裏舞台を綴りながら、自身の「成功と失敗」の要因をついに明かしたのが『反省記』です。これほど赤裸々で、切実な反省を記した経営者はかつていなかったでしょう。

特に、大川功さんとのやりとりは、最後涙無くしては読めません。

こういう師に出会ったから西さんは世の中を見られるようになったのだろうと思います。

その辺りは、清水さんも泣きながら書いてます。

西さんに運がなかったことが唯一あるとすれば、天才すぎたことだろう。
天才すぎるが故に自分より優秀な大人に出会うことがなかなかできず、人生の師と言える大川功と出会い、アスキーを追われ、彼のところに本格的に弟子入りするまで周囲が見えなかったのだと思われる。

そういう出会いの重要性も、この本から感じることができます。運がいいという一言で片付けるわけにはいきませんが、やはり人との出会いは重要なんだなと思います。

長いのでキンドルがいいと思いますが、単行本の厚みも感じていただければ。

いろんな読み方ができる本です。

是非、秋の夜長にどうぞ。


サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。