見出し画像

『ILLUME』とはなんだったのか:番外編その2:私が書いた記事

イリュームと私の2回目(笑)。前回は、時系列で、何故関わり、何故やめたのかについて書き、最後に20号記念号の付録の話を書きました。

ILLUMEの偏執的な編集が最もよく表れているのは、この付録だったと思います。本誌やりながら、これを編集するのは大変でした。

編集長と呼ばれて

6号から参画して、編集見習いから入ったわけですが、それでもいきなり6号のフロンティアレポートの書き手に布施英利さんを推挙して、一緒にNHKに取材に行ったりしたところから始まりました。

前職で企業広報誌のようなことをやっていたので、ある程度の編集作業はできたのもあり、7号からは編集実務のほとんどを手がけるようになります。

編集人のA氏は企画と主にインタビュー、あとはフロンティアレポートが海外ものだった際に翻訳を奥様が手がけるので、その対応。サイエンスシリーズは、専任のKさんがいるのでお任せ。なので、それ以外のTEPCOとの会議資料とか、コラムとか、論文などの対応、ADのM氏から指定されたデザイン上必要な資料の入手(当時は絵画や科学者の顔写真などのレンタルポジはネットで買えたりせず、レンタルポジ会社に借りに行かないといけません。また資料借り出しで美術館や博物館などにも行きました)、校閲とのやりとりなどの細かい仕事全般が私の業務範囲です。

特に9号からはコラムが多くなり、対応する筆者の数で言うと倍増し、編集の手間という意味では格段と増えたのですが、人員はそのままです。つまり、私がやる仕事が増えたわけです。

しかも、コラムの1本を編集部が書くことになり、それも担当することになりました。そして、そのあたりの業務増加に伴って、肩書きが編集長になりました。

編集人がいるのに編集長がいるのは、編集人は編集全般の責任者で、編集長は編集業務をする担当者の長という違いでの棲み分けです。なんでしょう、支配人と工場長みたいなものでしょうか。

「科学」という考え方

私が、この仕事ができそうだなと感じたのは、10号特集号でサイエンスシリーズの村上陽一郎先生の原稿に「「科学」という考え方」というタイトルを提案して通ったことでしょうか。

この号から、ほとんどの記事のタイトルを私が提案し、採用されはじめます。タイトルは、当初はA氏の専任事項だったのですが、この頃には、TEPCOとの編集会議にいくつか提案し、合議するようになっていました。

実は、「「科学」という考え方」というタイトルには、TEPCOの理系担当者から反対され、A氏も当初は納得していないところがありました。「科学」という公理が「考え方」だというのですから、科学に強い思いがあればうなづけないのは当然です。

しかし、この提案に私は、ある思いを持っていました。

こう考えないと、私は、このあと、この本の編集が続けられないだろうと考えていました。

科学を信奉する思いはあり、科学は事実に基づいていると考えますが、だからと言って全ての真実ではないと考えていました。つまり科学に対して無謬性を持ってはいけない。そういうブレーキを自分に課しながら取り組まないと、科学に取り込まれてしまい、中立性を保てなくなるのではないか、それは科学誌を編集する立場として、存立を危うくするのではないか。そんな思いがあったのです。若気の至りでもありますが、科学ジャーナリズムが科学に取り込まれてしまうのは、政治部記者が政治家に取り込まれるようなものだと思っていました。

「科学」もまた、一つの「考え方」に過ぎない。

それが、私が本誌を編集する上で大切にしたドグマだったのです。

幸にして、このタイトルは原稿を執筆された村上陽一郎先生から支持されました。

私が本誌とこのあと10年以上歩むことになる原点は、ここにありました。

海外出張あれこれ

本誌編集で大変だったのは、とにかく現地に行くことでした。執筆内容の打ち合わせや撮影のために国内はもちろん、海外にもいきました。

特に、10号ではフロンティアレポート「カリフォルニア州立科学・産業博物館」の執筆打ち合わせでロサンゼルスへ一人で行って、筆者のアン・マスカットさんと会い、現地でコーディネートをしてくださった酒井詠子さんを交えてミーティングをし、現地を見学したのは極めて強い印象があります。

海外出張そのものは初めてではありませんが、日本から一人で行ったのは初めてでした。一人で海外の空港に行って海外のホテル(日系資本で無い)に泊まるのも初めてで、そっちの方が怖かった。

1995年には、A氏から仕事を頑張っているご褒美としてニューヨーク=ロンドン=パリの三都市に行かせてもらいました。その際には、ロンドン郊外にある英国王立キュー植物園にいき、11号で取り上げたので掲載誌を届け、お礼を言い、広報担当者に園内を見学させてもらいました。事前に英語で交渉したことを含めて(メールとファックスを駆使して)大変でした。キュー植物園の研究機関に日本人研究者がいて、通訳をしてもらったのですが、キュー植物園の歴史や研究内容に関する英語は編集した時に元の英語での原稿を読んでいたので、その研究者よりも私の方が知っているくらいで、英語で話してもらっても困らなかったのですが、研究内容を説明する教授のイギリスジョークが皆目分からなくて、どこで笑ったら良いのか困りました。

1997年には18号で取り上げた「すばる天文台」を撮影するためにADのM氏とカメラマンのI氏と一緒にハワイ島に行きました。3000メートルを超える山上で建設中のすばる天文台を撮影するために、現地に行ったのですが、国立天文台の全面協力とはいえ、レンタカーの手配や運転は自前で(すばる天文台がある山は、山頂まで車で上がれるのですが、山頂は空気が薄くなるので上まで上がれる車は限られており、それをレンタカー会社で借りるには、山に登る理由などを書いた書類の提出も必要で、何より街中から遠いので運転が大変なのです)、撮影中に高山病になりそうになりながらの撮影はスリリングでした。

海外出張で最も緊張したのは、2001年4月にボストンに行ったことです。

25号のインタビューで利根川進先生を取り上げたのですが、細江先生による撮影はA氏が一緒にボストンに行って利根川先生の自宅も含めて行ったのですが、インタビューそのものは、利根川先生の来日に合わせて日本で行う予定でした。ところが、急遽来日が中止となり、インタビュワーとしてお願いしていた方も予定があってアメリカに行けない。そこで、突如、私が編集長としてインタビューしに行くことになったのです。

利根川インタビュー

2001年4月というと、野茂英雄がボストンレッドソックスに移籍した年で、その日ボストンにいた私は、いつもの調子ならば4月1日の野茂の登板を見に行くこともできたかもしれません。でも、全くそんな気にはなれませんでした。翌日利根川先生に会うことで気持ちがいっぱいいっぱいで、他のことをする気になれないのです。

ただ、ホテルにいても気が滅入るだけなのでボストンの街を歩き回り、ボストンレッドソックスの本拠地フェンウェイパークの前も通りました。のちに34号でフロンティアレポートとして取り上げ利根川先生の奥様の吉成真由美さんにご執筆いただくことになるボストン科学博物館にも行きました。

結果、緊張して行ったインタビューは利根川先生にも気に入っていただき、のちに、利根川先生が出した岩波新書に掲載していただくことになります。

入念に準備し、利根川先生の過去の記事やプロファイルを暗記して、どんなことにも応えられるようにした甲斐があったというものです。

インタビューが終わり、ボストンからニューヨークに移動して、1泊して日本に帰ったのですが、この時、ワールドトレードセンターを見に行っています。2001年4月には、まだあの建物は2本で立っていたんですよね。

まさか9月に崩れ落ちることになるとは思いませんでした。

名前は出ていないけど書いたものも

他には、フロンティアレポートでライターが書いたものがA氏のお気に召さず、私が全面的に書き直した回もありましたし、インタビューでも構成し直したり、テープ起こしから拾い直したり、インタビューイーの過去の発言を切り貼りしたりしてまとめ直したものもあります。

結構書いているんですが、そんなに名前は出てません。編集長ですからね。

雑誌などでも結局編集者が書いている記事というのは多いそうですが、本誌でもその手の話はあったということです。

でも、私の名前や編集部名で掲載されているコラムは、毎回、A氏に真っ赤にされて書き直すことばかりでした。そこのところでは、最後まで満足したものを書いていないかもしれません。

結局、書く仕事は私の得意とするところにはならなかったように思います。

何かが足らないんですよね。

それがわかれば、こういう文章ももう少し上手に書けるんでしょうけど。








サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。