最強の成功スキル|カーネル・サンダース、安藤百福に学ぶ「諦めない心」
「成功者は総じて諦めない。」
この記事にノウハウは書いてありません。
事実とマインドだけです。
ぶちゃけ言いたいことは以上ですが、これだけではあまりにもつまらないので
成功者の歩み
数々の困難を乗り越え、成功を掴んだ後に出た経験則としての「格言」
そこから学べる成功に必要たるマインド
を考察し肉付けします。笑
8000文字以上ありますので、時間がない方は「太字」だけ読んでください。2~3分で読めます。
※以下、中央寄せの太字は、カーネルサンダース/安藤百福/木下社長 ご本人の言葉です。
耳障りの良い言葉や大人気の「稼げますノウハウ」や「裏ワザ」は未記載のため決して拡散されることないでしょうが、
普遍的かつ万人に役立つ内容となっておりますので、ぜひ最後までご覧いただけると幸いです。
偉人たちの共通点
偉人17人の歩みダイジェスト
おや、人類の進化に貢献し偉大な結果を残した偉人たち、めちゃくちゃ失敗してるやん…
そう、彼らの共通点は「大量の失敗の上に成功を勝ち取っている」ことです。
なぜ大量に失敗しながらも挑戦し続けられるのか
「成功者は失敗を失敗と思っていない。」
誰もが知る、超がつく成功者や天才といわれる偉人たち。
至極当たり前ですが、彼らは「成功するまで諦めなかったから成功した」わけですね。
「失敗を失敗と思わずに経験や気づきだと思うこと。」
わたしの敬愛する(株)北の達人コーポレーションの木下 勝寿 社長の挑戦する人へ向けた言葉です。
「10回失敗して1回成功する」
上場EC企業の12倍もの驚異的な利益率29%をたたき出す木下社長でさえ、こう語ります。
本記事の具体的な内容
この記事では、
「大量の失敗に負けない」「成功するまでどう挑戦し続けるべきなのか」
これらの真の意味と挑戦の過程で持つべき心構えをより深く理解していただくために、
とりわけ私が敬愛する
カーネルサンダース(ケンタッキー・フライド・チキン)
安藤百福(日清カップヌードル)
の2名の偉人に焦点をあて、彼らの「成功までの歩み」と「何を考えたか」を考察。
彼らの生涯における取り組みに焦点を当て、そこから学べる成功への原理原則を解析し言語化していこうと思います。
カーネル・サンダーズの生涯
誕生~大量の転職
カーネル・サンダーズ、本名ハーランド・デイビット・サンダース。(以下、サンダース:敬称略)
1890年にこの世に生を受け、インディアナ州の牧場で育ちます。
5歳の時に父親が他界、家計を助けるために10歳の頃より農場で働くことに。
最初の農場は「仕事に集中していない」と評され一ヶ月で解雇。
その際、母親から
「仕事に必要なことはベストを尽くすこと」
と諭されます。
この言葉は、後に降りかかる多くの困難を乗り越える際、サンダースにとって大きな心の支えとなります。
その後、年齢を偽って軍隊に入りますが1年で除隊、約40種類もの職を渡り歩きます。
サンダースは元来キレやすい性格で、すぐにカッとなり掴み合いの喧嘩に発展することも珍しくありませんでした。
そのことも、少なからず離職に影響していたと推察されます。
弁護士時代※に裁判中にブチ切れたサンダーズは、法廷で依頼人と殴り合いの喧嘩をしたエピソードは有名です。
※正確にはサンダースは無資格でしたが、当時は法廷での弁護に資格は不要でした。
ガソリンスタンド廃業~カーネルサンダース誕生
度重なる転職の末、サンダースはガソリンスタンドの経営にも着手しますが、政界恐慌のため敢え無く廃業。サンダース39歳でした。
サンダース1度目の悲劇です。
サンダース40歳、翌年の1930年には別のガソリンスタンド「サンダース・サーヴィステーション」を開業。
サンダースの類まれなる働きぶりはガソリンスタンド業界でも有名になり、開業から数年後、噂を聴きつけた石油会社より直接オファーが来たのでした。
向かいの大きなビルに移転ししました。今回は集客の見込める交通量の多い国道沿いの立地でした。
ガソリン補給時の待ち時間に、飲食や休憩をしたいお客様の要望に応え、倉庫を改造した6席の「サンダース・コート&カフェ」をオープン。
サンダースは懸命に働きました。客足が止んだ夜9時からタイヤのメンテナンスは開始し、時には深夜2時まで作業を続けました。そして毎日朝5時にオープンするのです。
「成功しようと思ったら、はじめは楽せず苦労することは必要だ」
そんな信念のもと、ガソリンスタンドの支配人でありながら、調理係、レジ接客など経営から実務まですべての業務を懸命にこなしました。
45歳の時、州への貢献が認められ、ケンタッキー知事から名誉称号である「カーネル」を授与。
「カーネル・サンダース」の誕生です。
2度目の悲劇
1937年、ガソリンスタンドを手放し忙しくなったレストラン経営に専念。
サンダースカフェはモーテルを併設した大型レストランへ成長していました。席数はなんと142席。
当時サンダースはフライドチキンの開発に勤しんでいました。
特に真心血を注いだのは、多くの方がKFCの醍醐味と感じているであろうチキンをまとう衣の調合です。
小麦粉に無数の香辛料、ハーブ、スパイスの組み合わせを試し、移行錯誤を重ねること7年。
ついにサンダース49歳の時、現在も受け継がれる衣のスパイス調合が完成。
1941年、苦労を重ねたものの順調にカフェの拡大と名物チキンの開発に成功したサンダースに悲劇が襲います。
サンダース・カフェが火災に遭い全焼。サンダース2度目の悲劇です。
再起~3度目の悲劇
サンダース・カフェが火災により、失意のサンダース。
しかしカフェのメニューの美味しさに魅せられたファンや、サンダースの懸命な仕事ぶりを見ていた常連客から励ましを受け、再起を決意。
サンダースは資金集めに駆け回り、火災から2年後の1943年に150人の収容可能なサンダース・カフェを再建しました。
フライドチキンの調理に圧力鍋を使用することで、所要時間を30分から15分に削減。大量生産を可能にしました。
結果チキンの回転率を上げ、再建のための借り入れ資金を1年で完済しました。
そんなサンダースに3度目の大きな逆境が訪れました。
高速道路建設による交通網の変動です。車の流れが以前とはまったく変わってしまいました。
それまでの主要顧客であった遠方からの旅行者や運送業のドライバーなどの流動客が立ち寄らなくなってしまいました。
その後、レストラン以外の事業を始めましたが失敗し、多額の借金をかかえることとなります。
借金返済に困り果てたサンダースは、やむを得ずカフェを売却して返済に充てました。そう再びゼロからのスタートです。
65歳、裸一貫ゼロからのスタート
物質的にはすべてを失ったように見えます。しかし彼の頭の中には「フライドチキンの製法」という知識とノウハウが蓄積されていました。
そこで彼はチキンの作り方を教えて、1羽売れるごとににつき1セントをもらうレベニューシェア型フランチャイズを考案しました。
(以下、フランチャイズ=FC)
これはパーティで知り合った飲食店経営者と意気投合し、FC契約に発展したことから、サンダースはビジネスアイディアに確信を持ちました。
当時の飲食業界では、FCやノウハウを用いたレベシェアは存在せず、初の試みでした。
当時年金暮らしの65歳、自家用車で飛び込み営業の旅に出ます。
「65歳でゼロからの再スタート、そう考えると戸惑うかもしれませんが、この頃のわたしが人生で一番ワクワクしていました」
ケンタッキー州内を回り切ると隣接する州へ営業の旅を続けます。
その数は数千件を優に超え、一説には1,009件連続で断られても営業し続けたという逸話もあります。
その時、サンダース70歳を数えました。
余談ですが「CarNeru(カーネル)」という素敵な車中泊雑誌がありますが、カーネル・サンダースとはまったくの無関係で「Carで寝る」が語源だそうです(笑)
ピンチをチャンスに変え、常にベストを尽くすことで拡大し続ける
地道ではありますが、着実にFC店舗を拡大していく最中、1号店であるトラブルが起こります。
誤発注により紙バーレル(写真すぐ上)が大量に届いてしまったのです。
処分のために苦肉の策でチキンとビスケットをバーレルにブチ込み、テイクアウト用として発売。
このテイクアウトという発想は、座席数を消費せずに回転率を上げることに成功。
結果としてゆっくり食べている時間がないお客様まで取り込むことが可能となりました。
「人生に無駄なことはない、すべてに意味がある」
このテイクアウト施策が大当たりし、FC加盟希望の連絡が押し寄せる様になりました。そこから3年間で約200店舗オープンする勢いで出店。
海外進出も果たして約600店舗まで拡大、その時サンダース73歳。
全世界125の国と地域で約2万店舗を展開。
1964年、サンダースは74歳で経営から退きます。
その後、90歳で亡くなるまで全世界の店舗を回ってチキンの調理法が正しく行われているか確認、指導し続けました。
日本にも3度訪れており、日本KFCホールディングス株式会社によると日本の店舗が一番気に入っていると話したそうです。
サンダースは1980年6月に発症した急性白血病に、肺炎を併発。同年12月帰らぬ人となりました。
その頃KFCは、世界48ヶ国に約6000店舗を構えるまでに成長していました。
「自分に特別な才能があったとは思えない」
サンダースは常々そう口にしていたそうです。
「仕事に必要なのはベストを尽くすこと」という幼少期に受けた母親の言葉を生涯大切にし、
わたしには2つのルールしかなかった。
「できることはやれ」「やるなら最善を尽くせ」
といった信念を形成してあらゆる困難を乗り越えて大成しました。
65歳、裸一貫で再スタートしたサンダースですが、それが70歳であろうと80歳であろうと同じように挑戦したことでしょう。
「走るのを辞めた人間は、そこから一気に坂を転げ落ちるものだ」
安藤百福(あんどう ももふく)の生涯
誕生~起業~開戦
1910年に当時日本の領土であった台湾で生を受けた安藤百福。(以下、百福:敬称略)
幼い頃に両親が他界、織物を売る呉服屋を営む祖父母に育てられる。
裕福な家庭ではありましたが、厳格な祖父のもと作法やマナーなどを厳しくしつけられました。
家業の影響で職人や業者の出入りする中、商いの精神を育み、好奇心旺盛に育ちました。
高等小学校に進学する頃には、自分と兄弟たちの弁当を作るようになりました。
22歳の時に台湾で起業。
「事業を始めるとき金儲けしようという気はなかった、何か世の中を明るくする仕事はないか、そればかり考えていた」
1社目にニットの会社を台北で立ち上げ後、翌年には大阪へ移転し様々な事業を立ち上げ成功させていきます。
常日頃より「なにか人の役に立つことはないか」と考えており、時代の流れを敏感に察知していました。
自分のを使い各地の工場を回ってお客様の声を聴き、製品開発を進めました。蚕の改良に取り組む最中、ラジオで日米開戦の知らせを耳にしました。
第二次世界大戦下の百福、冤罪と食に見た未来
第二次世界大戦が始めると、百福は軍用機のエンジン部品の製造に従事。
盗難事件が発生し通報を入れると、憲兵隊から軍事物資横流しの濡れ衣を着せられ逮捕、投獄。百福1度目の悲劇。
留置所では腹部を殴打されるなどひどい拷問を受け、ろくな食事の支給もされずに飢えの苦しみと戦いました。
そんな中、わずかばかりの食事にむさぼりつく人を見て、人間の根幹的欲求たる食の大切さを痛感。
「食足りて、世は平らか」日清食品 企業理念
1ヶ月が経ち何とか出所後、疎開先で終戦を迎えました。
終戦~2度目の逆境
終戦後に大阪へ戻った百福は、食べ物がない現実に直面しました。
そんな最中、闇市でラーメン食べたさに行列を作っている人々を目撃した百福は、新たなビジネスの種を見出しました。
「みずからの足で歩き、みずからの目で確認しなさい、そうでなければあなたの話には重みも説得力もない」
二次情報のデータ収集より、実際に目で見て肌で感じたことを大切にした百福の言葉です。
気持ち新たに製塩業を開始、塩を作りイワシを捕って干物にして売りました。
製造した塩は近隣に配布、学校創設や病院食の開発にも着手。
農林水産省に余剰小麦で麺類の製造をするよう提案しましたが、まったく受け入れられませんでした。
「わたしは専門家の言うことは鵜呑みにはしない、素人だから常識を超えた発想ができ、正しいこともある」
そんな最中、百福を2度目の悲劇が襲います。
百福を慕う若者たちに渡していた金銭に給与認定がされ、脱税容疑をかけられます。2年の投獄生活を経て釈放。
1957年百福が47歳の時、3度目の落とし穴が百福を襲います。
自身が頼まれて理事長を務める信用組合が破綻し、仕事を失うと同時に無一文に。
しかし百福は持ち前のマインドで
「失ったのは財産だけだ、経験が血や肉となって身に付いた」
そう言い放ち、新しい事業を始めたのでした。
一文無し、ラーメンでゼロからの再スタート
百福が着手したのは、大阪の焼け跡で屋台に並ぶ人々の光景が忘れられないラーメン。
家庭でもお湯があればカンタンに温かいラーメンが食べられる「インスタント・ラーメン」の開発が幕を開けました。
自宅の裏庭に小屋を作り、約1年間毎日4時間睡眠で「インスタント・ラーメン」の研究に没頭しました。
おいしくて飽きない味
保存性が高い
調理が手間いらず
価格が安い
衛生的
以上の5つを兼ね備えたラーメンを目標に、試行錯誤は続きました。
作っては捨て、作っては捨てる日々。
それまでラーメンなどまったく作ったことがなかった百福でしたが、高い情熱と持ち前のバイタリティで、見事に理想的な麺の配合にたどり着くのでした。
「わたしはラーメンを売っているのではない、お客様に時間を提供しているのである」
しかし保存性と調理の利便性、味のバランスが次なる課題でした。
そんな折、妻が作る天ぷらにヒントを得た百福は、油で揚げた時にできる麺内部の気泡にお湯が浸透しておいしいラーメンになる「瞬間湯熱乾燥法」を用いて、世界初のインスタント・ラーメンである1958年「チキンラーメン」を完成させ発売に至りました。
発売当初、目新しさに加えて価格の高さもあり、すぐには売れませんでしたが、口コミで人気に火が付きました。
スーパーでの販売ルート確立や出始めのテレビCM制作を行うなど時代の流れに乗って、瞬く間に成長。
百福は日本だけでなく、欧米に「チキンラーメン」を普及させるため海を渡ります。
と、百福はその後海外との関わりも深いです。
渡航先で百福が見た光景は、現地の人がチキンラーメンを割ってコップに入れ、フォークで食べていたものでした。
「子供のようにいつも”なぜ”と疑問を発しなさい」
帰国した百福はすぐにカップに入れ、フォークで食べられる新商品の開発でした。
さまざまな形状を試した結果、現在のカップの形に落ち着きました。
軽くて断熱性が高く、安価な発泡スチロールは当時まだ珍しかったため、百福は自社開発に乗り出しました。
容器は完成しましたが、今度は麺がカップに入らないという障害が立ちはだかりました。
ノイローゼのごとく考え続けた百福はある夜、天井が回転する感覚に陥りました。
それをヒントに、これまでとは逆に「麺にカップをかぶせる」方法で問題解決と同時に工場での大量生産も可能となりました。
「カップ・ヌードル」の誕生です。
「明日になれば、今日の非常識は常識になっている」
お湯の出る自動販売機を開発し、買ってその場ですぐに食べられるようなサービスを展開。1年で2万台の設置。
普及促進のため、新しいものを受け入れやすい若者が集まる銀座の歩行者天国で試食販売を行い、多い日は2万食を売り上げました。
「カップ・ヌードル」の普及と進化
カップヌードルは、1972年「あさま山荘事件」のTV報道によって、全国区の老若男女に知れ渡ることになりました。
TV中継により、機動隊が現場で保存性抜群のカップヌードルを食べる姿がお茶の間に映し出されたのです。
日本、世界とインスタント・ラーメンを広めた百福は、宇宙食の開発に手を付け始めました。この頃なんと90歳。
「時代の変化に対応するのではなく、変化をつくり出せ」
2005年百福95歳の時、スペースシャトル「ディスカバリー号」に乗って『スペース・ラム』をいうインスタント・ラーメンが宇宙に渡りました。
2007年、インスタント・ラーメンの神様は96歳で急性心筋梗塞でこの世を去ります。
インスタント食品を誕生させ一時代を築いた偉人の訃報に、世界中が悲しみニューヨーク・タイムスには「ミスター・ヌードルに感謝」と掲載されるほどでした。
百福は晩年まで社員から新商品開発の相談を受け、1つ1つ丁寧に向き合っていたそうです。
宇宙食は以下のようにバリエーション豊富に進化しています。
「転んでもタダでは立ち上がるな、砂でも掴んでおけ」
「執念なきものに発明はない、ひとつ試みては捨てていく、考えて考えて考え抜け」
まさに執念で理想を現実化し続けた人生でした。
まとめ
情熱があれば素人だろうが良いものを作れる
諦めなければ最後に勝つ
周囲の人へ感謝を欠かさず、与える者は与えられる
一文無しはスタートライン、死ななければ何回でも立ち上がれる
「失敗を経験や気づきに変え、情熱と感謝を忘れず、前向きに取り組む」ことで、勝機が見えるわけですね。
「人生に遅いことはあっても、遅すぎることはない」
カーネル・サンダース
「人生に遅すぎるということはない。」
安藤百福
自分を凡人と思っている天才なんじゃないか
この人達は精神的に強いからできたんだ
偉人と同じ精神論を強要するな
「結局、根性論かよ」そう思ったアナタ、
「年齢や環境をできない理由にしていませんか?」
今は戦争も世界恐慌もありませんよ。
そう、めちゃくちゃハードル下がってます!
無理な独立を推奨するわけではないのですが、日本は衣食住が基本的人権で保障されている神国なんですよね。
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・出典:
【カーネル・サンダース】
ケンタッキー・フライドチキン・ジャパン公式HP
wayback machine
【漫画】ケンタッキーおじさんの秘密!~カーネルサンダース壮絶人生~
【安藤 百福】
日清食品グループ
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【人生逆転】47歳で無一文に!その後、インスタントラーメンを発明!世界の食を変えた男【安藤百福】
【タイトル画像】
KFC
るるぶ&more
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