大阪・アクション・生活アニメ ――『じゃりン子チエ』

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ブレンバスターが印象付けるアクション
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 なんといってもアクションが魅力的だ。
 特に目立ったアクションシーンがあるわけではない。やたらと喧嘩が好きな男が出てくるだけで、しかも思い返せば劇中に喧嘩シーンなんてほとんど出てこない。けれども見終わった後には、なんだか体が軽くなったような高揚感がある。「この映画ははアクション映画だ」と断言したくなるような、アクションの心地よさが身体の芯に残っている。
 『じゃりン子チエ』は「WEEKLY漫画アクション」に連載されたはるき悦巳の同名マンガが原作だ。舞台は大阪。主人公は、ホルモン焼屋を切り盛りする、バイタリティー溢れる小学5年生の竹本チエ。父親のテツは博打とケンカが大好きで、定職につかずいつもぶらぶらしている。母親のヨシ江は、そんなテツに愛想を尽かして家出中。そんなチエの一家を取り囲むように、テツの両親のおジイとおバア、お好み焼き屋の社長、テツの恩師の花井拳骨など個性豊かな登場人物が配され、ユニークなキャラクターたちのおかしくも、時にペーソスを感じさせる日常が描かれている。
 『チエ』は映画化にあたってできる限り原作に忠実であろうとしている。それは原作のコマとそっくりのアングルがいくつも出てくることからもわかる。だが、映画化された『チエ』の魅力の一つは、そうした原作そっくりの部分の行間を埋める部分。特に絵の動くアニメーションならではのアクションにこそ宿っているのだ。
 アクションの魅力は、映画の導入部からはっきりと感じ取れる。物語は原作通り、テツがチエの病気という嘘でおジイから金をちょろまかそうとするシーンから始まる。これはすぐにばれて、おバアの怒りのブレンバスターがテツに炸裂する。このブレンバスターが見事だ。特に投げ出されるテツが丁寧に描かれていて、体重の重さや落ちたときの衝撃が観客にもはっきり伝わってくる。普通に考えれば現実にはありえない「老婆のブレンバスター」が、このテツのリアクションでもっともらしく感じられてくる。また、だらしなくアゴを上げて倒れたテツのポーズには情けないおかし味があって笑いを誘う。
 このシーン、原作ではわずかにおジイが「ブレンバスターが出そうや」とつぶやくだけ。それを鮮やかに絵にしてみせたことで、この映画が、どこまで原作に則って描き、どこまでを映画として、アニメーションとして膨らませていくかがはっきりと示されている。
 ただしそれは、派手な見せ場になるから動きを派手にすることで、アニメーションとして膨らませようという姿勢とは少し違う。『チエ』におけるアクションとは、それを通じてそれぞれの登場人物の存在感を実感するための演技の一環なのだ。『チエ』をよく見れば気付くはずだ。実際に画面を活気づかせているアクションは、ブレンバスターのような派手なものではなく、実はもっとささやかなものの積み重ねなのだ。
 たとえばおバァが、怒ってカウンターの上に足を乗っける仕草。あるいはカルメラ弟の失敗に怒ったカルメラ兄がいきなり繰り出すハイキック。それに茶碗を投げたテツに小鉄がイスを投げ返す短いインサートカット。どの場面も原作を探しても、映画そっくりの場面はない。どれも原作に描かれた要素をベースに、より歯切れがいいアクションシーンとして描き直されている。
 殴る蹴るばかりだけが『チエ』のアクションではない。たとえばヨシ江と公園で待ち合わせしているチエが駆け出していくシーン。走るうちに転びそうになるチエの様子から、走るのももどかしいチエの喜びが伝わってくる。また親子3人で訪れた遊園地でテツが大喜びでスキップするシーン。手をつないだチエとヨシ江はめちゃくちゃに振り回され、転びそうになりながらも手を放さない。この時の3人の生き生きとした動きには、まさにアクションシーンとしかいいようのない開放感がある。
 それから忘れてはいけないのは、お好み焼き屋の社長。社長は死んでしまった愛猫アントニオの思い出を語りながら、鉄板の上のお好み焼きにポタポタと涙と鼻水を垂らす。鼻水がお好み焼きにくっつきそうでくっつかない一瞬は、実にドキドキものだ。これもまたアクションシーンの一つといっていいだろう。
 ここで思い出すのは、高畑勲監督の登場人物の造型についての発言だ。原作に描かれている顔は目と眉が離れているから情けない表情など作りようがないし、口も軽くにっこり笑わせるのは難しくワアッと笑わせなければならない顔をしている——と、ムックの中で高畑は語っている。
 怒れば手が出る。嬉しければ全身で表現する。泣けば鼻水までがアクションする。要するに「笑うならばワアッと笑わせなければならない」ような顔を持った登場人物たちにとって、アクションとは全身を駆使した感情表現そのものなのだ。それぞれのアクションがわずかな秒数でも、そうした感情を、動きのリアリティと上手な嘘がカタルシスを持って裏付けているからこそ、見終わったあとにもアクションの余韻が身体のどこかに残るのだ。
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異色のキャストによるアフレコ
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 ではそんな『チエ』はどういう状況で制作されたのだろうか。
原作は'78年秋、「WEEKLY漫画アクション」に読み切り短編として第1話が掲載'79年春より連載が本格的にスタートし、瞬く間に人気作品となった。ファンは大人から子供まで幅広く、小説家の大岡昇平が「文学界」で取り上げたり、'80年5月に作家の井上ひさしが「朝日新聞」の文芸時評で絶賛したことなども大きな話題となった。こうした高まる人気の中、映像化にあたっては映画、テレビ局など12社が名乗りを上げたという。原作はその後、'97年8月の連載終了まで約19年間にわたる長期連載となった。
 映像化権を獲得したのは、東宝、キティ・ミュージック(現ユニバーサルミュージック)、東京ムービー新社(現トムス・エンターテインメントの)3社連合。アニメーションの実制作は、東京ムービー新社の関連会社であるテレコム・アニメーション・フィルムが担当することになった。同社にとって『チエ』は'79年の『ルパン三世 カリオストロの城』についで、2本目の長編アニメーションとなる。
 企画の決定は'80年6月下旬。この時点で高畑監督のほか作画監督を小田部羊一、大塚康生の二人が担当することは決まっていた。作監作業は、小田部がチエとヨシ江、大塚がテツやそのほかのキャラクターという役割分担で行われた。
 脚本は当初、作家の藤本義一に依頼。8月第1週に第1稿が完成したが、原作の世界というより、藤本の世界に近づいた内容だったため、この脚本の採用は見送られた。その後、高畑が原作の1巻、2巻のエピソードをベースに再構成したストーリーをまとめ、検討を重ねながら9月に完成した。10月1日より作画インし、初号完成は'81年3月20日だった。作画枚数は当初3万枚の予定が、細かな日常芝居を追う内容のため最終的に約4万8000枚となり、『カリオストロの城』の3万5000枚を上回った。
 キャストについては9月下旬から10月上旬にかけて関係者による打ち合わせが行われ、決定した。当時、主要な登場人物の大半を全て関西喜劇人で固めたキャスティングは大きく話題になった。
 キャスティングについて高畑監督は、まず「ちゃんと関西弁を話せる人を」という条件をあげたという。それを受けた、片山哲生プロデューサーは、『花王名人劇場』などを手がけた知り合いの澤田隆治プロデュサーに相談。澤田プロデューサーは、昭和30年代から昭和40年代にかけて多数のお笑い番組を手がけており、当時も『花王名人劇場』で「MANZAIブーム」を盛り上げていた人物の一人。片山、澤田両氏の話し合いの中で、関西弁をちゃんと喋ることができる必要があるならば、キャスト全員を関西タレントにしようと吉本興業などにアタックすることが決まり、結果的に異例のキャストが実現したという。
 このキャステングは、もちろん話題作りのためという側面は否定できない。たとえば小鉄とアントニオ(とJr)に西川きよし・横山やすし、チエの同級生のマサルとシゲルに島田紳助・松本竜介とそれぞれ漫才コンビの存在をあてこんだキャスティングにはそういう意図が感じられる。だが全体として見れば『チエ』のキャスティングは、話題作りの域を超え、関西弁によるテンポのいい会話を自然に演じられることで原作の世界を壊さず、さらに芸人の個性と各キャラクターの相乗効果で魅力的な人物像を作り上げるという前向きな効果があった。
 中でもテツ役の西川のりお、社長役の芦屋雁之助ははまり役だった。のりおは、本人の乱暴な芸風とテツの乱暴な個性が絶妙に絡み合って虚実が一体となった魅力を醸し出した。一方、芦屋雁之助は、極道のおやじの怖さとお好み焼き屋のおやじの人の良さの両方を見事に演じ分ける演技力で、社長のキャラクターを見事に表現した。
 またチエ役の中山千夏も、「これしかない」と言い切れるほどのはまり役だった。実ははるきは、小学生の時、中山が子役で出演した「がめつい奴」を見ており、その演技のうまさを鮮烈に覚えていたため、できればアニメの声は中山であればいいと思っていたという。はるきはチエのキャストについて、特に制作サイドにリクエストはしなかったというが、制作サイドでも中山の名前が挙がっており、結果的にはるきの理想のキャスティングが実現することになった。
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いかに原作の魅力を映画にするか
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 先に書いたように『チエ』のアニメーション化にあたっては、原作の魅力を損なわず、原作に寄り添うように制作するという基本姿勢があった。しかし当然ながら、マンガとアニメーションでは表現方法が違う。「絵を使って物語を展開する」という一点こそ共通しているが、その“文法”の違いは大きい。マンガをそのコマ割り通りに動かしていけば、長編アニメーションが成立するわけではない。『チエ』の絵作りは、その違いを十分意識した上で、いかに原作の雰囲気をアニメーションへと変換できるか、という部分に工夫が凝らされている。
 『チエ』が「原作と同じ」という印象を与えているポイントは大きくまとめると三つに分けられる。一つはキャラクター。もう一つが画面の構図。そして最後が背景だ。
 まずキャラクターについてだが、『チエ』の場合、キャラクターが似ているというのは単に外見が似ていることだけにとどまらない。それ以上に重要なのは、漫画から想像されるキャラクターの動きの印象そのものをアニメーションに置き換えるということだった。
 『チエ』では一連の自然な動きの中に、印象的に原作通りのポーズを入れることで、原作が持つ動きの印象をアニメーションの中に取り入れる工夫がされている。特に原作の中でも特徴的な動きである歩きの動作は、足をまっすぐ高く前に出した独特の格好で、これを作品の中にちゃんと取り入れるため、作画イン前には「原作と同じポーズで歩きを描く」というテーマでテストも行われている。
 こうしたテストの成果は、クライマックス直前、墓場へと向かうチエと猫たちのシーンで確認することができる。チエとテツと社長のそれぞれの歩き方の違いが表現され、さらに猫の小鉄とアントニオJrががに股で二本足で歩く様が不自然に見えないように描かれている。
 もちろん登場人物の設定そのものについても苦労はあった。頭身の詰まったキャラクターが多く、原作そのままにキャラクターをデザインすると、中には不自然に頭が大きなキャラクターが入り交じって見えるという問題点があった。静止しているマンガであれば、それほど違和感を感じさせないが、より現実に近い印象を与えるアニメーションの場合、こうした不自然さは観客に非常にひっかかりを感じさせる。
 たとえば花井拳骨の場合、原作ではテツよりも身長が低く描かれている。しかしこれでは巨大な頭の持ち主になってしまう。そこでテツに対しての存在感なども考慮し、映画ではテツよりも背の高いキャラクターとして描かれている。こうした細かい調整の結果、スクリーンでも原作と同じ印象を持つキャラクターを自然に登場させることができたのだ。
 次に画面の構図についてだが、これは本書と原作の当該部分を比較してみれば一目瞭然で、『チエ』では原作のコマ割をできうる限り消化して、各カットのアングルに反映している。原作の中には、怒ったチエの表現として、頭が大きくなったり、ジャンプしたりというマンガ的なコマもあるが、それもそのまま映画のカットの中に取り入れている。にも関わらず、単なるコマの引き写しにならず、原作の印象はそのままにその場の空間を感じさせるアングルになっているのは見事としか言いようがない。
 連続するコマで描かれていた内容を、アクションカットでつなぐ。俯瞰のコマの視線を目線の高さに修正しつつ、登場人物の配置は原作に従う。このように、原作のコマを映画に生かすためにさまざまな工夫が凝らされている。こうした工夫により、原作とほとんど同じ構図のカットが入り込んでも、決して浮くことなく、映画の構成要素として馴染んでいるように見えているのだ。
 背景は、大阪ロケハンを行い、現地の雰囲気を作品に取り入れた。大阪ロケハンでは、通天閣周辺をはじめ、天王寺公園、ひょうたん池などをまわり、背景設定の参考とした。また逆にチエの店の周辺の町並みについてはあくまでも原作を尊重し、原作で曖昧になっている部分などにロケハンで見つけた商店などを参考に設定された。
 『チエ』の背景の特徴としては、原作の雰囲気を生かすため水彩画風のタッチを採用した点があげられる。アニメーションの背景はポスターカラーを厚塗りしていく方法がとられている。それに対し『チエ』では、建物などをインクでまずペン入れし、その上に薄く色を乗せていく方法がとられている。この方法だと薄い色を塗る際に、筆に水を多く含ませる必要があり、紙がでこぼこになってしまう。それを防ぐため、約800枚の背景のほとんどは水張りして描かれたという。これは通常よりも数倍手間のかかる方法だった。
 なお余談だが、授業参観のシーンに登場する不二家さんことペコちゃん。これもまた原作にあったギャグをそのままアニメ化したもの。ただし、現在双葉文庫から発売中の原作では描き直され、「へのへのもへじ」顔のキャラクターに変えられてしまっている。
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小鉄が4本足で登場した理由
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 原作の持ち味を生かすため以上のようにさまざまな工夫がされている『チエ』だが、より積極的に改変を施し、それが隠し味のように原作の持ち味をひきたてている部分もまた多い。これは原作を徹底的に読み込みその精神を尊重しつつ、それを映像作品として成立させていく高畑演出の典型的なアプローチだ。
 たとえば小鉄の扱いを見るとそれがわかる。原作は、ネコも二本足で歩くキャラクターとして登場しているのが最大の特徴だ。また、人間とは言葉を交わさないものの、ネコ同士ではまるで人間のように会話をするシーンも出てくる。
 高畑はこの小鉄の初登場を、まず普通のネコのように演出した。チエの店の前に四本足で現れた小鉄。チエが投げてくれたホルモンを食べる瞬間、二本足になり“手”をつかって串を握る。観客はまず、この一瞬のギャグを通して、原作の“お約束”を理解することができる。
 だが小鉄の描写はこれだけで終わったわけではない。この後も、ちょっとした小鉄の描写を的確な場所に挿入していくことで、高畑は原作が描くネコの世界へと観客を誘導していく。小鉄は、プロレス技を披露し、瓦を素手で砕いて見せる。さらにはけん玉で遊んだりもする。観客はこういう描写を見ているうちに、だんだん小鉄がネコに思えなくなってくる。そしてついにマラソン大会の夜、小鉄は「風邪ひくぞ」とさりげなくセリフを喋る。
ここまでいくともう人間と大差ない。
 こういう段取りを踏んで観客が小鉄についてネコや人間の区別なくキャラクターとして親近感を感じるようになった上で、ラストのアントニオJrとの戦いが描かれる。この立ち回りは、ネコというよりほとんど人間同士の格闘といってもいいような内容だし、さらに小鉄たちの体も心持ち大きくなって人間くさく見えるようになっている。冒頭の“前足”で串をつかむギャグはそれ単体であるのではなく、さまざまな描写を経て、このラストへとつながっているのである。
 このほかにも的確なシーンを挿入することで原作に一層の膨らみをもたせたところは多い。たとえば、チエがテツの写真にバツを描くカットを入れることで、写真をチエの気持ちを描くための小道具として浮き上がった。また、チエとヨシ江が『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』('67、福田純監督)を見るシーンを挿入することで、チエの親への思いが観客の心の中に浮かび上がるらせた。
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遊園地のシークエンスの存在理由
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 以上のような改変の中で最大のものは、中盤に挿入された遊園地のシークエンスだろう。このシークエンスは、アクションの爽快感と叙情が入り交じって、本編の中でも最も魅力的な場面となっている。
 親子3人で出かけるというエピソードは、原作の「同居予行演習の巻」で描かれた金閣寺のエピソードに相当する。映画ではこれを同居後のエピソードに変更し、チエの家族に関する最後のエピソードとして置いている。
 拳骨にどやされて遊園地に出かけたテツとヨシ江とチエ。当然ながらテツとヨシ江はぎくしゃくしたままだが、道中チエが突然歌い始め、それで多少空気がほぐれ出す。そして遊園地にあるボールを投げるゲームで、チエにほめられてから、それまで不機嫌だったテツが俄然張り切り出す。
 へたくそな男からボールをひょいと取り上げ、きれいなフォームでストライクを投げる仕草。思いっきり力を入れて遊んだためにモグラたたきや、腕相撲ゲームを壊してしまうシーン。さらにアベックの写真撮影にいたずらして割り込むタイミング。このあたりのテツの動きは、本当に気持ちがいい。
 しかし、遊園地のシークエンスは楽しいばかりではない。
 チエがゴーカートに乗っている時、ふとテツとヨシ江を振り返ると、テツがヨシ江の肩を抱いている。信じられないものを見たカートをこぐチエの足が思わず止まり、カートは静かにコースアウトして止まる。この時のチエの表情は、単に驚いただけではない、自分の知らない大人の世界を垣間見、自分はそこに関わることはできないのではないかと感じてしまった寂しさが横切っている。この直後の観覧車で見せる子供らしい笑顔と、この寂しさはコインの裏表なのだ。そしてこの遊園地行きは原作と同様夢の中のチエのモノローグで締め括られる。「水道のしずくがペタペタ顔にあたってた。そうや家の蛇口がゆるんでた。うちでも直せるやろか……」
 高畑は「アニメージュ」'81年1月号で、金閣寺行きのエピソードをはずした理由として、原作に対して3つの疑問点を感じたからだと話している。一つは、このエピソードで急にチエが子供を演じている。二つ目は、エピソードの中でチエは同居に向け両親の仲をとりもとうとしているが、テツは結局変わっていない。三つ目は、予行演習以前に既にヨシ江は家に帰る決意をしている。この高畑の疑問を踏まえて遊園地のシークエンスを見ると、シナリオ段階での変更の意図が見えてくる。
 結論からいうと、遊園地のシークエンスは、金閣寺行きのエピソードにある疑問点を逆手にとって、チエのキャラクターをより立体的に描くために挿入されたエピソードなのだ。大人顔負けのチエは、ともするとスーパー小学生といった類型的キャラクターに陥りがちだ。それを避けるためには、チエはあくまで普通の女の子で、たまたま環境が大人っぽくならざるをえなかっただけという部分を見せなくてはならない。そのため遊園地のシークエンスでは、チエの子供らしい部分を、子供だから触れられない部分の存在も含めて描いたのだ。そう考えるとチエの「うちでも直せるやろか」というモノローグは、原作よりもぐっとシビアな内容に聞こえてくる。
 なお、遊園地のエピソードの後、ヨシ江が働き始めるというエピソードが挿入される。目が覚めてヨシ江がいないと大喜びする何も変わっていないテツと、それにあきれるいつものチエ。このエピソードは非常に短いが、遊園地で普段は描かれないチエの子供の一面にスポットを当てたからこそ、逆に物語を“いつもの場所”に戻すためには絶対に必要なエピソードだったのだ。
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変更されたラストのエピソード
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 『チエ』は、遊園地のエピソードの後に、小鉄とアントニオJrの決闘を描いてエンディングとなる。だがシナリオ段階では、さらに決闘の後に、原作の「うちのお父はんの巻」が入る予定だった。
 「うちのお父はん」は、チエの作文が金賞を受賞し、大勢の前でそれを発表することになるというエピソード。実はチエの作文は、テツがマジメに店をやっているという“ウソ”を書いたものだった。チエは作文の最後を「ウソだけどこうなりたいと思います」と締め括っていた。だが、担任の花井先生は「チエの本当の気持ちが書かれているからウソではない」と、その部分を消してコンクールに出したのだ。そして発表会の日、テツはチエの作文を聞く……。このラストに向けて、本編では所々に作文の宿題を提出するシーンなどが挿入される予定だった。
 このシーンが最終的にカットされたのは上映時間の問題だった。上映時間は当初1時間40分の予定だったが、完成した作品は1時間51分。もしかすると現在のようにアニメーションでも2時間の上映時間がありえる状況であれば、当初の予定のストーリーのままで完結していたかもしれない。
 全編を通して見ると、チエと家族の物語が中心で進行してきたのに、最後が小鉄とアントニオJrのエピソードで締めくくられるというのは、やや違和感が残るところでもある。
 高畑はこのラストを選択したことについて、「マイアニメ」'81年6月号の座談会で次のように発言している。
「入れるつもりで設計したしたわけですから、それをバッサリ切ったのは必要ないということではまったくなかったんですよ。とても入りきらなかったんです。そこで『チエ』の世界を十分、画面に出すことに重きを置いたんですよ。ストーリー上、映画としては損をしても、そのほうがいいと思ったものですから」
 確かに当初のシナリオのほうが、ストーリーとしてはまとまっている。しかし、きれいにまとまり過ぎることで、テツとチエとヨシ江の関係に一つの決着をつけすぎてしまう可能性もある。たとえば「アニメージュ」81年1月号で高畑はこうも話している。
「(編注・取材記者に)反対に聞きますけど、チエは“なみの子”になりたいと思っていますかね!? (略)僕はこの映画の中でそこをあいまいにしておきたいと考えているんです。たとえば、3段論法を成り立たせるならこんなふうにいえる。テツというやつはヒドイやつ。なぜなら、テツが生きられるのは、チエの犠牲において成り立っているから。だったら、チエを犠牲にしてはならない。つまり、テツはいまのテツであってはならない——しかし、ぼくはテツみたいなやつがいてもいいんじゃないかと思っているわけですよ。だからあいまいに描きたいんです」
 この発言の通り、ラストを変更にしたことでチエ、テツ、ヨシ江の関係は、ヨシ江が帰宅したことを除けば、映画の最初と何も変わらないまま映画は終わる。しかしエンドロールを見てもわかるように、そのぶんだけチ登場人物たちがまだどこかで、相変わらずの日常を繰り広げているような雰囲気が残った。ラストが緞帳で締めくくられたのも、緞帳の向こうでは、見えないけれどまだチエたちの日常が続いているという意味が込められているのではないだろうか。
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日本を舞台にした生活アニメ
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 昔、あるアニメ誌にこんな一コママンガが描かれていた。遠くに雄大な山、ログハウス風の建物、そでの膨らんだ服……そして「こういうのがなければ名作アニメってできないものなのかね」という作者のコメント。
 結論から言えば、そういうものがなくても「名作アニメ」は成立する。正確に言い直すなら、名作アニメの嚆矢である『アルプスの少女ハイジ』が切り開いた「生活アニメ」という方法論は、決して欧米を舞台にした「名作」だけを題材にするものではない。言葉にすると当たり前だが、これは多くの観客からは無意識のうちに見過ごされている点でもある。
 高畑は『ハイジ』以降確立した生活アニメの特徴について、以下のように記している。
「物語の大きな長れは原作の進行にまかせ、そのなかで主人公の日常にいわば密着取材して彼等の一日一日の生活(生き方)を克明に追いかける。まわりの人々との心の触れあい、主人公の喜怒哀楽は充分に描いてみせるが、日々の小事件や出来事からすぐ教訓をひきだしたり価値判断を加えたりせず、あくまで日常的な事象として取り扱い、それに視聴者を立ち会わせ、主人公とともに生きることを可能にさせる。まわりに配された大人達も、無理に子供の理解出来る範囲に醜悪(矮小)化または英雄(巨大)化せず、様々な性格をもった等身大の大人として現実的に描く」(『映画をつくりながら考えたこと』徳間書店)
 これを読めばログハウスもそでの膨らんだ服もないが、『じゃりン子チエ』は、まさしく日本を舞台にした生活アニメというべき作品だったことがわかる。最初にに『チエ』に登場するアクションの魅力について書いたが、ここにも書かれた通り『チエ』の場合この一文にある「喜怒哀楽を充分に描」く過程で、アクションが必要だったのだ。
 「日本を舞台にした生活アニメ」は、日本のアニメーションにおいて異色の企画である。『チエ』は映画公開後テレビシリーズになり人気を集めたが、これに続くような企画は結局生まれてこなかった。
 だがこの方向性の一端は高畑自身の手によって『火垂るの墓』や『おもひでぽろぽろ』となって実現することになる。

参考
「アニメージュ」'81年1月号、同5月号(徳間書店)
「作画汗まみれ 増補改訂版」(徳間書店)
「100てんランドアニメコレクション じゃりン子チエ」(双葉社)
東京ムービー公式サイト(http://www.tms-e.com/)

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