早すぎた『テクノポリス21C』

 夢は夢のままにしておくことが美しいこともある。『テクノポリス21C』は、まさにそういう作品だった。
 多くのファンが『テクノポリス21C』の存在を知ったのは、「アニメージュ」1981年11月号の付録、「スタジオぬえのデザインノート」だったのではないか。この「スタジオぬえのデザインノート」に掲載された、3体のテクロイド(犯罪捜査のために開発されたアンドロイド)のデザインがとてもかっこよかったのだ。そのデザインを見て、まだ見ぬ、制作中の本編に思いをはせたのだった。
 そして1982年7月にモーニングショーの形式でついに本編公開。それは夢ばかりが大きく膨らんだファンにとっては、いささか物足りない夢の結末だったといわざるをえなかった。
 ちなみに筆者は「つまらなかった」という評判をアニメ誌などを通じて知って、レンタルビデオ屋でビデオソフトを見かけても長らく敬遠していたクチで、さらに時間がたってからようやく見て、玉手箱を開けた浦島太郎のごとくようやく劇場で見たファンの気持ちに追いついたのだった。
 ちなみに「スタジオぬえのデザインノート」には、同じく公開前の設定として映画『さよならジュピター』のメカも載っており、それを見たファンは(以下略)。ま、そういう時代だったのよね。
 wikipedeiaを見ると『テクノポリス21C』の企画はかなり紆余曲折があったようだ。
 そもそも発端はアートミック。設定・デザインなどにスタジオぬえが参加している。当初はアニメとメカの実写特撮の合成を想定していたというから、サンライズと円谷プロが制作した『恐竜探検隊ボーンフリー』などと同じ方法を考えていたということのようだ。その後、アニメ企画となり、まずはTVスペシャル用の作品を製作。ところが肝心のTVシリーズについては企画が流れ、その後ようやく最初に完成したTVスペシャルがモーニングショーというかたちでようやく日の目を見るようになったのだった。
 wikipedeiaには公開が「企画から4年」と記されている。ちなみに『ボーンフリー』の系譜を継ぐ作品としては最終作に相当するアニメキャラに実写特撮を合わせた『科学冒険隊タンサー5』の放送が79年7月。78年から企画を進めていたとすると確かに時期的には接近している。
 あと劇場公開されたとはいえ、「映画」ではなく「TV」として制作されたという点も見逃せない。ファンは映画を見に劇場に足を運んだからがっかりしたけれどい、内実は『マクロス』以前のTVシリーズであるとわかってみると当時としては(ややあか抜けなくて、素晴らしくもないが)平均的なところではある。
 つまり企画から公開までの時間のズレ、さらに、その間に加速していったアニメブームと作品のズレが重なり合ったところに、当時の「がっかり」感があったのだ。
 とはいえ、である。そういう要素をさっ引いたとしても、『テクノポリス21C』が「惜しい」アニメだったことにはかわりはない。もしかすると「惜しい」というより、「早すぎた」といったほうが正確かもしれない。
 『テクノポリス21C』の舞台は、当時から18年後の未来である西暦2001年。
 未来都市センチネルシティーではメカを悪用した犯罪が多発していた。そのため警察内に特捜マシン隊「テクノポリス」が設立され、村上博士が開発した「テクロイド」と壬生京介ら選抜メンバーが協力して凶悪事件を捜査することになる。
 そんな折、空軍が開発した空挺戦車テムジンがテロリストにジャックされ、センチネルシティー市街地に乱入する。テクノポリスのメンバーの活躍により犯人を逮捕したものの、自動プログラムが作動したテムジンが再度暴走する……。
 一見すればわかるが『テクノポリス21C』が意識したのは、アメリカの刑事アクションドラマ。天野喜孝(当時・嘉孝)のキャラクターデザインにはじまり、主人公である壬生京介や上司である鳴海吾郎の性格設定など非常にバタくさい。キャストも壬生京介が安原義人、鳴海吾郎が内海賢二だから、いうには及ばず。
 アニメのいいところは「実写よりも安価に洋画を作れるところ」にある。その欲望は、中高生のファンの存在が確認された'70年代後半から次第に具体化していくことになった。『テクノポリス21C』はその流れにきれいにのっているし、似たような試みは何度もあるのだが、なかなかストレートに洋画っぽいアクションアニメを成功させた例はない。もしかすると『カウボーイビバップ』まではないのかもしれない。
 どうしてなかなか成功しなかったかというと、説得力をもって洋画っぽいアクションを映像にするには、当時はまだアニメの制作技術が発達していなかったからだ。
 たとえばファーストカットで描かれるテクノポリスの摩天楼。超近代都市ということは伝わってくるが、それぞれのビルの立体感は乏しいし、どれぐらいの高さのビルなのか実感できるスケール感にも乏しい。巨大な近代都市というイメージだけが伝わってくる。
 もちろん当時としては、これが普通だった。でも、そういう記号的なイメージだけでは「洋画っぽく」なることは難しい。そこの見極めがないまま(あるいは見極めはついていても、そこまで精度を高められる人がいないまま)制作されてしまっているのだ。
 このちょっと足りない感じは作画についても同様。
 キャラクターの演技も堅くて、『機動戦士ガンダム 哀・戦士篇』と同時期の作品と思うとやっぱり見劣りはする。頻出する爆発もかなり漫画っぽくて、リアルとは言いづらい。
 だが、作画の堅さ以上に、気になるのはレイアウト。この時期の作品らしく、空間感覚はかなりアバウトで、それが作品を安く見せてしまっている。
 たとえば銀行強盗が逃げるシーン。テクノポリスに追われた銀行強盗は、高架の道路から下の道路を走るトラックへと飛び移る。その逃げ方はまだいいとして、画面上では、その飛び降りる高さが20メートル以上あるように見えるのだ。しかも、偶然は走ってきたパネルバントラックの上に無事着地する。
 実はリアルさというのは、こういう「高さ」に代表される空間を正確に描き、アクションの段取りを巧みに構築するところから生まれるのだ。けれど、この作品はまだそこまで意識が至ってない。
 だからテムジンやそのほかメカが登場しても、さほどかっこよく感じられない。
 脚本的にも気になるところはある。
 ちなみに、脚本にクレジットされているのは、松崎健一、星山博之、山本優、松本正志の4名。前半3人は改めて説明するまでもないだろう。アニメ脚本家として実力の知られた3人だ。(いずれも『機動戦士ガンダム』に参加しているのは偶然?)
 最後の一人の松本正志は、本作の総監督でもある。そのほかの監督作を見ると、『狼の紋章』や『戦争を知らない子供たち』、『俺の空』など実写の監督作品が多く、アニメは本作のみ。当時、アニメを劇場公開するにあたって実写監督の名前を借りる(監督や監修など肩書きはさまざま)ケースは少なくなかった。松本氏が最初から企画に加わっていたのか、それとも東宝での公開が決まってから加わったのか、そのあたりは不明だが、かなり特殊な状況であったのは想像がつく。
 シナリオで一番気にかかかるのは、バディものになっていないところ。
 『テクノポリス21C』の設定の魅力は、ブレーダー、スキャニー、ピゴラスというテクロイドと3人の人間がコンビを組むところ。コンビものはその二人が息のあった活躍をすることで魅力が生まれるのだが、ところがそのあたりはTVシリーズのほうでやるつもりだったのか、どうも行動が散発的というか、テクロイドに目を見張る活躍を用意するわけでもなく、人間側もテクロイドを道具として使っているようにしか見えず、基本設定のおもしろさがなかなか面に出ない。
 もちろんテムジンが盗む側に対してドラマがないことも大きい。実写であれば、ドラマが薄くても、火薬とガレキの量で勝負できるのだがアニメだとそうはならない。
 もちろんおもしろいシーンもある。
 それは後半、テムジンがプログラムによって暴走を初めてから。超高性能な戦車が町中を蹂躙しながら進むあたりは、かなり痛快ではある。
 作り手も後半はテムジンに少し感情移入したようで、夕日の中、透過光に囲まれて走るテムジンという叙情的なカットを作ったりしている。これはつまり無人兵器のためのプログラムを搭載されたテムジンの暴走を悲劇ととらえていて、それは人間と協調できているテクロイドとの対比になっているはずなのだが(内海のセリフにもそんなニュアンスが漂う)、そのあたりの対比の構図が弱くて、なんだかしまらない感じになってしまっているのがもったいない。
 だから思うのだ。 『テクノポリス21C』って今りメイクしたら結構おもしろくなるんじゃないの? と。特に美術や作画のレベルは格段にあがっているのだから、それだけでもだいぶ見応えがあるものになるはずだ。
 たとえば考えようによっては『機動警察パトレイバー the Movie』の冒頭に出てくる暴走レイバーは『テクノポリス21C』の遠い子孫だし、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の第2話「暴走の証明」で描かれた暴走する新型多脚戦車とそれを止めようとする公安9課の活躍は、極めて『テクノポリス21C』的構図といえる。
 世界観の設定をもう少し整えて、未来のポリスアクションとしてリメイクすれば、『攻殻機動隊』の後釜ぐらい狙えそうな感じがするのだが。
 しかしこうやって『テクノポリス21C』を振り返ってみると、アニメブームのころに夢見られた「洋画っぽいアクションアニメ」が成立するまでには、15年ぐらい時間が経っていることに呆然とする。
 『テクノポリス21C』という借金を返すまでに15年かかったということはつまり、あの時、夢見た夢がそれだけ大きかったということでもある。
 『テクノポリス21C』だけではない。当欄でこれまで取り上げてきた「迷作」たちが「迷作」だったのは、迷ってしまうほど背負っている夢が大きかったということでもある。
 今、“返済”まで10年かかるような大きな夢ってあるのだろうか。そんなことを思いつつ、この連載も今回で最終回。
 どうもありがとうございました。

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