『甲虫王者ムシキング 森の民の伝説』『絶対少年』

『甲虫王者ムシキング 森の民の伝説』『絶対少年』
おもしろい作品に出会う方法 2005.08

ニュータイプに連載していた「アニメの門」から、2005年8月に掲載した原稿をピックアップします。この原稿は単行本『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』(NTT出版、現在は品切れ)に収録されています。

(本文)
 ここ数年間は空前の本数のTVアニメが放送されている。本数が多いということは、それだけバラエティに富んでいる、ということでもある。にもかかわらず「どうもおもしろいアニメがないなぁ」と思っている読者も少なくはないはずだ。
 おもしろいアニメがない――ということの半分は、実は自分の「アニメ観」が硬直してしまって、ストライクゾーンが狭まってしまっているところに理由がある。(後の半分は、ホントに作品がイマイチな場合なのはいうまでもない)。そんな凝り固まってしまったアニメ観をもみほぐしてリフレッシュするには、自分の“好み”を棚上げして、いろんなアニメを観てみることにつきる。
 というわけで、今回取り上げるのは、硬直してしまったアナタのアニメ観を多少なりとも揺さぶるのではないか、と思われる2作品だ。
 まずひとつは『甲虫王者ムシキング 森の民の伝説』。ご存じの通り、これは今人気のアーケードゲーム『ムシキング』をベースにしたアニメだ。
 ゲーム『ムシキング』は、実在のカブトムシやクワガタといった甲虫を操って、それぞれをバトルさせるという内容だ。
 ところが――というべきか、始まったアニメ版「ムシキング」は、ゲームの持つシンプルなバトル性にフォーカスしていない。むしろバトルとは相反するような要素を多数盛り込んでいる。
 未見の人のためにあらすじを紹介すると、次のような内容だ。
 主人公ポポは森の中で木々や昆虫と共生している森の民の少年。ある日、森に原因不明の異変が起き、ポポの母は植物の様な姿になってしまう。母を元の姿に戻すため旅に出るポポ。そのポポを赤い目の巨大甲虫が襲う。甲虫たちはアダーという謎の人物に操られて凶暴化していたのだった。ポポは、謎のカブトムシ、ムシキングの力を借りながらも旅を続け、森の異変とアダー一味たちの謎へと迫っていく……。
 『ムシキング』のストーリーで重要なのは「死」を重要なファクターとした点だ。死体こそ描かないが、光になるという方法で、森の民の死が画面上に描かれている。そして、ポポをつけねらうアダーの手下、パサーは「やがてすべては光になってしまう」と考えるニヒリストで、たびたびポポに「避けようのない死」について問いかける。
 「死」を描くということは「生」をかけがえのないものとして見つめなおすことでもある。第4話「生命の輝き」で、アリジゴクがウスバカゲロウへと脱皮し、産卵後死んでしまうというエピソードが登場しているのは、そんなアニメ『ムシキング』の明確なスタンスの現れだろう。そこにアニメ版『ムシキング』の持つ倫理がある。
 ゲーム『ムシキング』で甲虫たちが演じているのは、バトルに負けても、ヒットポイントが減りこそスレ、決して傷つくことはないキャラクターである。甲虫たちが生き物である以上、ゲームには「バトル」ものの「エンターテインメント」を成立させるためのある種の“省略”がある。
 アニメ版『ムシキング』は、その“省略”の部分に徹底してフォーカスすることで、ゲームという土台の上に、極めて倫理的な作品世界を積み上げたのだ。
 「エンターテインメント」はしばしば不快なもの――死はその筆頭だ――を脱臭して、観客の意識の外へと追い出してしまう。そういう自動化したアプローチに、正面から逆らうアニメ「ムシキング」を見ることは視聴者の中にある、エンターテインメントと倫理の関係を考えるきっかけになるはずだ。
 もう1作は『絶対少年』を取り上げたい。こちらも未見の人のためには、まずあらすじの紹介から始めるべきなのだろう。だが、あらすじの紹介をしても『絶対少年』の魅力は伝わらない。言葉に還元不可能な部分が非常に多い(まあ、映像作品なのだから、それは当然といえば当然なのだが)。それこそが『絶対少年』の一番スリリングなところだ。
 夏休みを利用し、東京近郊の田舎町、田菜に離婚した父を尋ねてきた引きこもりの少年、逢沢歩。そんな彼の周辺で、謎の光の球が目撃されたり。自分の幼い頃そっくりの子供が現れたりと、不思議な事件が起きる。。そして足を踏み入れることを禁じられた「頭屋の森」の秘密とは。
 『絶対少年』は、光の球の存在に象徴されるように「見えるもの/見えないもの」を軸に展開している。そして「見えるもの/見えないもの」は、そのまま「語りうること/語りえないこと」との関係とも照合している。だから、さきほど書いても実にはがゆいのだが、あらすじだけでは『絶対少年』は伝わらない。
 『絶対少年』は会話劇でもある。しかしそれは何かのディスカッションというわけでなく、ごく普通の生活の中で取り交わされる言葉のやりとりがほとんどだ。そして、日常の言葉が多く費やされれば費やされるほど、言葉にならないなにかがその向こうに潜んでいることが、余韻ある演出によって示される。
 最近読んだ本にこうあった。。
「余韻とは実態にある何かでなく、ただ何となくあるような気がする何かのことではないかと私は思う。人が歩き去った風景をほんの数秒撮ることで、見ている者は何となく何かを感じているような気分になる。つまりそこに心情が発生する」(『小説の自由』保坂和志、新潮社)。
 この論に従って考えるなら、『絶対少年』に出てくる緩やかなカメラ移動は「言葉にならないもの」「見えないもの」の気配を漂わせるための狙いがある、ということになる。その気配は流し見ではなかなか関知することはできない。
 アニメを見る場合、キャラやメカなど、どうしても目に見える部分だけに意識がいきがちだ。だがこの2作にはそんな“習慣”でアニメを観ることを許さない迫力がある。

※以下の部分に傍点
「見ている者は何となく何かを感じているような気分になる」


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