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まいにちトーク 3

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2014年12月と2015年1月のこと。
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スープをつくる過程で沸騰したお湯に固形状のコンソメを投入する作業をはじめてしたときは、熱湯が怖くてコンソメを高いところから落とそうとした。それによってポトンとお湯が跳ねかえって手にかかりヤケドしやすくなるのを学んだとき、人間が想像し身構えることで不要に増大になる力があると知った。

一度でもやってみたことがあると語りはじめると、すぐさま「それをするようなひと」になってしまうかのような異常な直結速度の感覚がある。呼び出される「(日常的に)それをするひと」のイメージは、たいてい誤っているし、名乗りになることを予定した行動の選択はぎこちなくて、ゆらぎが挟まらない。

じぶんのしていることがはてしない徒労なのかもしれないと感じられた時、まったく別の時間軸で別の作業をして過ごしているときの思いが身の半分だけあれば、ひょいっとそちらに移ってしのぐことができる。あるいは正面から受け止めるべきなのかもしれないけれど、その強靭さを僕は持ち合わせていない。

あるときわりにはっきりとした形で、夜更かしの後悔や翌朝の焦りと辛さがほとほと嫌になって飽きていいた。優先順位というものを真ん中に据えてみたら、削られるものはもうはっきりと見えてしまうのだ。とはいいつつ若干の抵抗を示すのは、寝るのが惜しいほど楽しいことをしてるのを見せつけるためだ。

その作品が古典になって長く残っていくかどうか、出会った瞬間には鑑定できないけれど、わたしにとって古典というか、古典のように見えたという場面は十分に想像できる。また、すでに体験されている目の感触に、そんなふうに言ってみるとわりに説明がつく例がある。決定打が突き抜けたのを見たときだ。

誤った会話と正しい会話なんて簡単に分けられないけれど、ときに耳にひっかかる一言はある。それは相手の発言に応じて最初に「だから」から始まる一文。情報を上乗せしたり結論に向かったりしているようで、ある場合にはただただ十分に理解されていないことに対する苛立ちの発露に終始していたりする。

他人の振る舞いに不愉快なものを見出すことが習慣になってしまうと、もちろんその動作が際立って強調されて目の前に現れてくる。うまく無視してやりすごすことができるように、脳にある電車の線路を切り替えるのはけっこう訓練がいる。だから、それよりじぶんがなにかに没頭していればいいのだけれど。

やや広めのフロアになっている本屋さんでも「家庭の医学」以外の医学書があるかとなると不思議とない。なんというか、お医者さんにじぶんが属している人体についての大部分をあけわたしているんだ。で、あえて過ぎたことのように言うと、ふらっと歩いて出会えるような所に、いてほしかったなあと思う。

じぶんの身体を第三者の視点から捉えた映像がいつも網膜に映っていたら、それはそれはじぶんがいかに不愉快であるかを痛感することになるだろう。他人の不愉快さにばかり敏感なのは、じぶんが見えないからだ。だけどもしかしたら、この時はじめてじぶんという生物の面白さを発見するのかもしれない。

優先順位が、とたんにわからなくなる。というか、ずっと分からない。「これでいこう!」と決め打ちできそうだと思えたこともすぐさま飽きたりして捨てられていく。かといって、なにも決めないでいることはさらに消耗ではないかと感じる。おかしい。決める、とは、なにかを買うことだったのだろうか?

報われる、浮かばれるといった言葉は、労力の大きさに対して小さな成果しか得られなかったときそれを埋めるものについて言っているのだろうか。だとしたら、浮かばれたいがためにわざわざ小さな成果しか得られない大きな労力を払おうとしがちな傾向もありえる。清貧の発想に近いところかもしれない。

「それはどっちでもいいことだから、気にしなくていい」と言える点がわかっている人に尋ねて安堵したいし、またじぶんが知っている(それほど広くない)範囲にある問いであればそれに応じたい。問題なくて良かったーと感じている声を聞くのは、それは応じた側も、よかったーと思える時間になる。

なにかの代理人としてふるまう、というのはほんとうは不可解な体の動かし方なのではないか。たとえば何かをするにしても、代理人には動機が必要無い。どこかで下された決定に基づいているだけだ。はたまたほかの代理人は、責任を持たない。正しさを主張しはするが、それを疑われると身を翻して消える。

同級生が夫や妻として暮らしている家庭にこどもが生まれたりすると、よく小説に描かれるように、そこから後戻りはできなくなるような、わりにはっきりとした音が聞こえる。ただちょっと難しいのは、その子について尋ねようとすると、友達の領域から「他所の家」の領域へ踏み込んでしまいそうになる所。