ぼくと結城学くん 第1章

 結城学くんは哲学者であった。哲学研究者ではなかった。メルロ=ポンティやフッサール、そしてサルトルの現象学的思考方法使って質の高いエッセイを執筆していた。ケアや臨床哲学に関する高度な内容であった。

 ぼくは小説家であって三島由紀夫に大きな影響を受けた小説家であった。「エクスタシー」や「美」を追求する三島由紀夫のスタイルを継承した作品を発表していった。また、演劇のための戯曲も書いた。前衛藝術をふんだんに盛り込み、コンテンポラリーダンスなどもとり入れていった。結城学くんとはカフェでよく藝術や哲学について話し合うことができた。「文章の形式美」について、ぼくはある種のこだわりを持っており、「論理の美」に凝り固まっていた。しかし、結城学くんはメルロ=ポンティの如く、やわらかな思想の持ち主でぽつぽつと言葉を手垢がついていない言葉で会話をつむぐことに慣れていた。ぼくが型にはまった観念論者であるならば、結城学くんは自由人そのものの存在であった。

 ぼくは哲学の現象学を自己の哲学で終わらせるのではなく、むしろケアの哲学(他者へのケア)における哲学として追求していきたいという気持ちがつよかった。

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 結城学くんはビートルズの音楽が大好きで、毎晩ビートルズのアルバムを聴いていた。メンバーのなかで、リンゴ・スターが好きであった。戯曲の執筆はいつも夜に行っていた。結城学くんは寺山修司と平野啓一郎に熱中していた。結城学くんは東京の下北沢に5畳のボロアパートで暮らしていた。ボロアパートには壁一面に本がぎっちり、ぎっちり並んでおり、「地震がおきたらたいへんなことになる」と誰もが納得するアパートであった。朝食はチキンラーメンをそのまま齧って生卵を飲んですませていた。演劇にはお金がかかる。家庭教師のアルバイトで本を買い、音楽のアルバムを買っていた。平野啓一郎の『マチネの終わりに』を舞台化するために徹夜で脚本を執筆していた。結城学くんにはパニック障害と不眠障害を抱えており、精神科に通院していた。眠るときには睡眠導入剤が必要であった。下北沢では有名な脚本家兼演出家であったのでひっきりなしに「お仕事」としての物書きを続けていたが、寺山修司の影響性が強すぎて賛否が分かれる舞台が多かったのは否定できない。

 コロナショックのために街は黙り込みをきめていた。もう、舞台にお客さんは来ないだろうと思っていた。だが、ぽつりぽつりと客足はなり響いていた。それをどんなにか救いとしていたことだろう。「石橋を叩いて壊す」ことを結城学くんはモットーにしていた。密度の高い脚本を何本か執筆し、「本読み」をし、稽古をした。『サーカスの見世物小屋』という作品を書いているとき、夏樹くんに学くんは出会った。舞台専門のプロの俳優で身体を鍛えるためにボクシングをやっていた。良くも悪くもガリマッチョであった。野菜と鶏の胸肉をゆでた料理を好んで食べていた。学くんは理解することができなかった。学くんは自炊することがないためである。

 夏樹くんは過去をもたない男であった瞬間のエクスタシーを常に持っていて、決して自己をふり返らない。だから、日記やエッセイを書かない。そして尚かつ、TwitterやFacebook、Instagramもスマフォにはアプリ自体が存在しなかった。「アナログ男」と学くんにそう呼ばれていた。表現の場は「舞台」そのものであった。夏樹くんはコンテンポラリーダンスやタップダンスが得意で「これがぼくの武器だ」とか「これしかないんだ!」と叫んだりした。

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