ぼくと結城学くん 第2章

 結城学くんが「臨床心理士」を登場させる脚本を書いているとき、夏樹くんはドイツに行っていた。理由は「恋人が出ていったから」。「いままでありがと」とだけ書き置きを残したまま、5年間付き合っていた彼女がいきなり存在を消した。夏樹くんはベルリンの藝大に留学した。油絵を専門的に学ぶためらしいが、結城学くんにはさっぱりわからなかった。夏樹くんの行動が……。

 結城学くんがK大学文学部哲学科にいた頃、レヴィナスの『全体性と無限』を研究するためにフランスに留学し、博士号をとったことがあったのである。レヴィナス哲学から得たインスピレーションはスクラップ・ブックやスケッチ・ブックのクロッキーに現れていた。文章をつむぎだすことよりも脳内映像を具現化してしまったほうがたやすかったのである。

 ぼくはとても苦しんでいた。母が海外ドラマにハマり、家での居場所さえもなかった。ただあったのは己の文藝の才能である。裂かれた自己をあたたかい眼差しで見守ってくれたのは、学くんであった。劇団『あるき』を主宰していた学くんは忙しいあいまをぬってメールでやりとりをしてくれた。駆け出しの小説家はいつ才能の花が枯れてしまうかわからない。その恐ろしさを知ってるのは親友の学くんだけだ。ぼくは日記をつけていた。その日記は魂の慰めのために書いていた。

 他者が読むことが前提で書かれてはいなので、論理的ではないが、かれこれ5年はつづけていたのである。友達が少ないので「親愛なる友よー」からはじまる文章を書いたり、自動筆記の手法で思いつくまま言葉をつむぎ出した。現象学の研究も学くんがメールで助言してくれるのでうれしかった。

 ぼくは学くんのすすめでビートルズのアルバムSgt.Pepper‘s Lonely Hearts Club Bandを執筆するときにかけることにした。そうすると、スイッチがはいったように物書きがはかどるようになったのである。学くんがビートルズが好きな理由がわかった気がした。小説を書きはじめる前にはプチ瞑想もしたりした。心を病む前に、禅寺で坐禅を体験したことがあったためである。

 結城学くんは『マチネの終わりに』の舞台化に成功した。コロナショックのために規制をしたが、神がかった脚本が支えとなりお客さんたちは満足してマスクをして帰っていった。次回作はゲーテの戯曲『ファウスト』を舞台という空間につめこんだ綿密な脚本を書きあげていた。夏樹くんにコンテンポラリーダンスつきで稽古をつけていた。

 そのあいだ、ぼくはヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の翻訳の仕事を引き受けてしまった。「魂を削ることになるな」と仏語のどでかい本を前にラルースの仏仏辞典と格闘しながら、一文、一文肌理こまやかな文体で和訳をすすめていったのである。

 

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