第四節 慶藩置県前後の建築物の整理(P34-48)

工学会(1927)『明治工業史 建築篇』
第一編 建築沿革一般
第一章 維新前後の建築及び関係事件

第一 宮華族邸修繕

 明治4年7月廃藩置県の大変革ありたる前において、建築に関する事項を述ぶることは、住時を思ぶの所縁ともなり、些細のことなれども甚だ興味あることなり。次の往復文書の如きは頗(すこぶ)る面白きものの一なり。

(中略)

以上は即ち明治3庚午10月大蔵省大阪出張所より本省へ伺出でたるものなり。之に対して大蔵省が弁官宛にて交渉せしこと左の如し。即ち明治4年の日附なり。

(中略)

紹介文は右の通りなり。之を明治中葉の言葉を以て表わせば、大蔵省は内閣書記官または局長宛に照会せしなり。

 斯くて弁官は大蔵省より前記交渉を受けしを以て、上官の命を受けて左の如く回答せしなり。その回答者には職名を記し、随って宛名も人名を用いたり、以て回答の責任を明かにしたり。即ち左の通り

(中略)

 斯くて井上大蔵大丞と坂本大蔵少丞とは、その当時の内閣側資任者より「御意見通り京都府へ指令がありたり」と言える回答を受取りしなり。大丞は後の大書記官位に相当し、出納正は出納局長又は出納課長、また出納佑は出納次長ともいうべき役なり。是において宮華族の修繕は何れも自費支弁と決定したるなり。

第二 府庁の創立費及び修繕

 次に府庁舎の創立費と修繕費とに関しては、明治6年8月左の如き御達により、国庫支出と地方費支出との別を明かにしたり。

(中略)

 是において従前は新設修繕の別なく悉皆国庫支出なりしを、今般より新築においてのみ国庫より三分の一を支出し、除は地方費支出となしたるなり。勿論当時においては地方費なる言葉は無かりしならん。

第三 県庁建坪規則

 明治4年の廃藩置県の大改革あるや、各県において県庁建坪の区々たる状況なるに鑑み、大蔵省土木寮営繕課においては明治4辛未年11月県庁建物規則案を作成し、夫々手続を経て伺済となれるもの次の如し。先づ伺書より記す。

(中略)

 以上は決定済にして、即ちこの如く布達して実行したるなり。当時廃藩置県後間も無かりし故自然石高をもって計算の標準となしたり。さてこの如く決定せし前の経緯を知る為め最初の案をも次に記し、以て有司の労苦を偲ばん。即ち左の如し。

(中略)

 されば11月の決定規則にては30万石を最少限となしたるが、原案は10万石なりしなり。また5月原案を伺出でたる省は民部省と大蔵省と連名なるが、その当時は民部大蔵両省が一省なりしなり。次に原案においては県庁舎のみならず、知事以下の官舎の坪数をも規定するの案なりき。即ち知事、大参事、少参事、大属、少属、史生と庁掌、使部以下の建坪を規定するの案なりしが、その中知事及び大属のを掲げん。

(中略)

これ明治4辛未6月付の原案なりき。然れども官舎の制限は遂に実行するに至らず。県庁舎のみを制限せしこと前記11月附決定規則の如し。

第四 官営家屋調査の件

 明治5年に至り、政府は官有建物の台帳作成の必要を感じ、各府県をして雛形に準拠して提出せしめ、以て土地建物の台帳の基礎を作ることとしたり。今その年4月3日大蔵省土木寮営繕課起案にして伺済なる規則及び伺書を次に掲ぐ

(中略)

 当時は置県後間も無き事なれば、建物の改廃等頗る煩雑を極め、坪数の増減等甚だ混乱を致せしならん。是において当局者は台帳の急速作成に気附きしことは至当のことなり。次に雛形即ち明治末葉の語にて書式を称するものを左に掲く。

(中略)

 以上は即ち書式なり。この書式を玩味するに明治5年には尚ほ干支を用うることが習慣なりしなり。即ち明治5年と唱うるよりは壬申5年と称する方当時の人々には諒解し易かりしならん。明治6年に至りては干支を公文に用いしこと甚だ少きが如し。

第五 官舎払下規則及必第舎貸渡規則

 土地建物の敷理に従お、建物の状態によりては官有となして、取締上錯雑を生ずるよりは、寧ろ之を払下げて煩労を軽減することは、貸主及び借主の双方において便利なるべし。乃ち差支無き建物に限り払下ぐることとなせしは、至当の政策なりと言うべし。今その公文書を次に掲ぐ。

(中略)

 以上によれば在来の官舎は入札を以て売却し、全く民有となすの方針を取りたると同時に、若し新設県庁の所在地が差当り便利を欠き、買取るべき住家も無く、又は貸家も無く、片田合とも称すべき処なる場合には、後日は確に繁栄の土地なるならんが、眼前の不便迫れるよりして、この如き特別の県庁に限って、第舎貸下規則が生じたるなり。即ち新県庁創立の際土地によりては有り勝の事なり。何れも実際の必要より起れる規則なりき。

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