第四節 工部省関係の諸建築(P108-136)

第一 便宜上一時他官庁にて実行せし建築

 従来建築工事は大蔵省土木寮の管掌なりしが、明治7年1月より工部省の管轄に帰し、その省内製作寮建築局において取扱いたり。後営繕寮新設されて総ての工事はその管掌に帰せり。後更に官制の改正ありて営繕局となり、最後に営繕課となり、時代に応じて事務もまた大に浮沈ありたり。

 明治7年頃、工部省において営繕事業は草創の際なりし故に、当時の大工事なりし内務大蔵両省の建築は工部省において着手せずして、右両省において自身実行するに至れり。

(一)筋違万代橋際租税寮出張所

 この建築は工部省の手により実施すべき筈の処、便宜上大蔵省において施工したるなり。今之に関する往復文書を次に掲げ、以てその当時の建築関係手続の状況その他を窺知し得ることは、頗る吾人の興味を感ずる所なり。

 先づ大蔵省土木寮用度課営籍懸より左記の通りの伺書を差出したり。これ明治7年4月5日附にして、その附箋に明治6年12月御勘定に相立候事とあり。即ち後世の語にて言えば予算に編入済となりたるなり。既に予算に編入したるを以て、用度課営繕掛にては成るべく至急着手したき意にて、次の如き着手伺とも言うべきものを差出したるなり。

(中略)

 右の如き伺書が出でたるに、順序として検査寮へ廻送されたる時、同寮にては之を見て手続上の欠陥を発見して用度課へ抗議申込みたること次の如し。

(中略)

 斯くて用度課は一本りたる体なり。さて以上の経緯において、吾人はその当時においても新営は時の内閣なる正院へ手続を為すべき筈なりし事を知り得るなり。但、その手続については明治6年既に規程ありしか、又は規程なかりしか、唯、検査寮よりの注意に止りしか、孰れなりしか不明なり。若し規程様のものありとすれば、万事草創の際にして用度課吏員も未だ之に慣れざりし故、正院へ上申するの手続に気附かざりしなるべし。

 以上は明治6年12月の出来事なり。然るに翌明治7年1月よりは諸官庁の建築工事は、総て工部省の管掌となり。是において大蔵省においては次の如き伺書を太政大臣に提出したり。

(中略)

 右の如く大蔵省より左院へ伺出でたる処、即座には許可なく、先づ翌14日の日附を以て次の如く、左院より大蔵省へ宛てて申出でたり。

(中略)

 この要求及び申出に対して、大蔵省よりは即日左院へ左記の如く回答し、尚お工部省へ御達には不及と追記し、頗る強硬の態度を示したり。即ち次の如し。

(中略)

 是において左院は大蔵省の強硬なる態度を見て、然らばその理由を詳細承知したしとの事を照会したること次の如し。

(中略)

 是において大蔵省は、更に伺書を別に作りて改めて之を提出し、且、前伺書は之を取戻すことにしたり。次の如し。

(中略)

 これに同時に次の如き正式の書類を送附したり即ち前文中にある別紙とはこの事なり。

(中略)

 この18日附の伺書は前記13日附のものと全く同文なり。然るに13日附の伺書を初めて提出ありたる以来、往復数回にして頗る煩雑を極めたれども、18日附の伺書に対しては万事交渉済の事とて4月25日附にて「伺之通」といえる指令ありたり。この如く幾多の曲折を経て終にその工事を大蔵省自ら実行し得るの許可に接したり。是においては同省は用度課に対し、次の如く令達したり。

(中略)

 是において大蔵省は、工部省に依頼せずして直接工事を施行し得る事となれり。是より先、内務省庁舎の建築については、明治6年12月において内務省自ら工事実行の許可を得しを以て、既得権により明治7年後も内務省自ら工事を担当せり。次に租税寮出張所建築については、その手続が明治7年1月以後なりしを以て、折衝頗る面倒なりしならん。

 さて租税寮出張所の建築は次の通り。(仕様書より抜萃)

一桁行72尺梁間30尺
軒高腰石上端より桁峠迄25尺
西洋両妻脇屋根正面妻迄本家二階建腰巻石伊豆スサキ青石石四側積家根桟瓦角々ツヅラ石中村青石組揚ヶ外廻り惣体茶色漆喰塗化粧台輪ならびに軒蛇腹共白漆喰内廻り惣体張付
一24尺12尺 玄関、前同断
 此建坪8坪
  合68坪

 右の外表門は西洋門にして玉子色ペンキ塗、また門番所は外廻り西洋造にして桁行3間梁間2間なり。その他平家建の建物4棟ありて、各棟は桁行24尺梁間12尺軒高13尺5寸屋根は片小棟造なり。四棟合計64坪、依って総計132坪なり。次に角柵については左の如し。

(中略)

 土台は槍にして押5寸角又柵子は杉押3寸5分角

(二)租税寮出張所構内倉庫

 以上は明治7年の出来事なり。然るに明治8年に至り更に倉庫新築の必要を感じ、又々工部省の手を経ずして大蔵省自ら施工し度き希望を以て、次の如く伺出でたり。但、茲(ここ)に一の注意すべき事あり。

  明治7年の書類中には 万代橋
  明治8年以後には   万世橋

 而して以前はヨロヅヨバシと言いたるに、大正年代に至ってはマンセイバシと唱え居ることも面白き変遷なり。

(中略)

 之に対して次の如き指令ありたり。

(中略)

 右倉庫は外部石張にして、その内側はアゼリ羽目に為し、之に砂を詰めたる構造なりしことは次の如し。

   石蔵1棟(仕様書より抜萃)
 一桁行42尺 梁間18尺
   軒高腰巻上端より桁峠迄19尺
    但6步高配
    此坪21坪

 以上租税寮出張所と石蔵とは同構内に在りしを以て、序を以て大蔵省にて施工監督せしことは、理由なきに非ざるなり。然るにその後場所の全く異なりたる、丸之内大手町なる大蔵省構内に国債検査両寮並雑具庫を新築するに当りても、大蔵省はまたまた工部省の手を煩わす事なく、大蔵省自ら建築実行の任に当らんとして、次の如き伺書を提出したり。従来諸建築は総て同省の管掌なりしを以て、工部省に委ぬる事は頗る名残惜しき故にや。

(三)国債検査両寮並に雑具庫

(中略)

 是に対して左の指令ありたり。即ち聞届けはするも建築費は大蔵省の定額内にて支弁し、別途よりは支出せずとの指令なり。然れども工部省の手を経ずして可なりとの事なり。是において大蔵省自ら施工することの目的は充分達せしなり。

(中略)

 是においてか大蔵卿は用度課へ次の如く達したり。

(中略)

 斯くて国債寮検査寮及び物置の建築は、遂に大蔵省において実施することとなり、同省は本望を達せしなり。而して以上建物の構造の概要は次の如し。

 国債寮検査寮新築(仕様書より抜萃)
一桁行78尺 梁間54尺 1棟
  軒高石上端より桁峠迄25尺
  此建坪234坪
   此外玄関等を込め合計241坪
  但西洋造両妻脇屋根2階建腰巻伊豆洲崎青石三側積屋根桟瓦葺角々葛籠石同石組揚外迴り惣体白漆喰化粧台輪並軒蛇腹共同断内廻り惣体張付。
 大蔵省用度課物置新築(仕様書より抜萃)
一桁行20間 梁間5間 1棟
  軒高土台上端より桁下ば迄1丈5尺
   但し6寸高配
   此建坪100坪
 屋根方形造削小屋桟瓦葺外アメリカ下見ペンキ塗軒

 工部省降盛時代においては、イギリス下見若くは西洋下見なる言葉流行せしに対して、前記仕様書中においてはアメリカ下見なる語あり。注意すべきことの一なり。

第二 税関上家

 税関上家の如きは、建築としては毫も取るに足らざるものなり。然れども外国人にも直接関係あるものにて、当時の当局者の苦心甚大なりし事を記し、以て往時を追懐することは歴史上後輩の取るべき任務なるべし。

 工部省営繕局時代と雖も、地方の建築は関係他省において実施し、営繕局においては専ら中央政府の建築を手掛けしなり。依って税関類の建築は無論大蔵省の管理なりしなり。

(一)神戸税関上家

 次の伺書は明治9年9月租税権頭より上官へ提出せしものにして、外国使臣等との折衝が如何に困難なりしか文外に溢れ、私かに当局の惨憺たりし状況を窺い知り得るなり。

(中略)

(二)函館税関上家並に借庫新築費

 函館税関の状態についてはまた一風変り、荷主は任意の場所より貨物を陸揚し、甚だ不取締にして密輸入の如きは行われ易く、また、外国商人の横暴なるは屡(しばしば)難題を言い出だし、当局者は実に困難なりしこと、左記伺書にて窺い知らるるなり。

(中略)

(三)橫浜税関上家

 横浜税関上家の如きもまた各国領事団結し、領事公会長よりして造営を迫る等当局者は甚だ困難を覚えたり。一方経済問題に妨げられ、他方領事団に脅かされ、当局者の進退是れ谷れりと言うべし。之に関する何書次の如し。

(中略)

 以上の伺に対して、同年同月28日次の如き指令ありたり。

(中略)

第三 他より工部省の手に移りし工事

 京橋以南の市区改正に伴う改築工事は、明治5年に起工、同9年竣工となれり。その間明治7年1月より、工事の実施に関しては総て工部省の管掌に帰せしを以て、同省は京橋区木挽町に工部省出張所を設け工事管掌に便にしたり。而して工部省は製作寮建築局をして工務に当らしめたり。当時製作頭は平岡通義なりき。後明治8年に至りて営繕局長となりたり。

 前述の通り工務は工部省管掌し、経済は大蔵省担当し、各般の事務は性質上東京府知事の当る所なりき。然れども不明の点ありしか、次の如く府知事は大に周章したる事ありき。

(中略)

 前記の如く府にては、工部省製作寮建築局より建築地の住居人引払方を掛合来りしを以て、府知事は引払方命令前に先づ昨年12月区長戸長より差出だしたる歎願書に対して指揮を仰ぐ事の必要を察し、先づ内務省に伺出でたり。然るに内務省はそは工部省の管轄となりとて却下したるを以て、府知事は時を移さず工部省に伺出でたるに、同省にては毫も関係無しとて返戻したり。是において府知事も困り、再び内務省に申立てたるに、同省にては再考の結果金銭に関する事故は大蔵省へ申立てよとの事にて、最後に同省に申立て指令を受けたるなり。

 抑、京橋以南の大通に面する部分が、既に明治6年中に建築を終りたる事は本書第1章に述べたるが如し。是において明治7年よりは第2期工事として小道路に面する部分の改正工事に着手する事になり、その担当官庁たる工部省製作寮建築局より府知事に宛て、その住居人の立退を申込みたるなり。然るに府知事は去明治6年中に同地戸長共より次の如き陳情書を受取り居りたり。

(中略)

 この陳情中新橋のことを芝口橋と唱えあることも注意すべき一なり。さて東京府知事は明治6年に既に落手したるを以て、意見を添えて同12月25日大蔵卿に伺出でたるなり。而して年明けて工事は、工部省管掌となりたり。

 さて明治5年の布達によりて、焼跡家屋は総て煉瓦造たるべき規定の処、前記陳情書によれば、土蔵造をも許可ありたしとのこと、又総て建築は官にて建築し住居人に貸下げありたしとの事なり。

 然るに大蔵省は建築構造法を幾更することは相成らずとて、次の如き指令を東京府に発したり。

(中略)

 斯くて戸長よりの陳情書の如き構造制変更のことは聞届けられざりしを以て、止む無く住居民も漸次引払うこととなれり。而して引移先については次の伺書に明記せり。

(中略)

 之に対して「伺之通」と指令ありたり。ついては木挽町の地面に関して処分法は既に定まれり。是において東京府知事は同地へ新設すべき道路及び井戸に開する入費について大蔵卿に伺出でたり。次の如し。

(中略)

 是において大蔵省は、本件について自ら指令を下さず、一先づ正院へ伺を立てその指揮を仰ぎたり、即ち左の如し。

(中略)

 以上の如く大蔵省より正院へ伺出でたる処、12月17日附にて「伺之趣聞届候事」と指令ありたり。

 さて建築は総て煉瓦造との規程ありたれども、住民は何れも之を厭い、漸く粗悪なる建築を為して顧みざるに至れり。是において政府は火災上の危険を慮り、遂に土蔵造の制をも許可する事となり、明治8年内務卿より之に関する布達を発せり。蓋し当時はこの如き事は内務省の管理たりしなり。而して工事実行の事は無論工部省製作寮建築局において取扱いしなり。次の布達中にもその意は明かなり。

(中略)

 此の如く当局者においては、苦心惨憺として専ら人民の便利を図りしに拘わらず、当時の習慣として煉瓦造類の家に入ることを欲せず、政府の配慮も全く水泡に帰し、折角新築せし家屋も空家となれるもの多く、明治末年より見れば真に隔世の感ありき。次の伺文によりその消息を窺知し得べし。

(中略)

 是において東京府知事は、指令を受けたる後翌10年2月に至り、次の如き布達を発したり。

(後略)

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