第一節 工部省関係の建築事項(P77-92)
工学会(1927)『明治工業史 建築篇』
第一編 建築沿革一般
第二章 工部省時代の建築及び関係事件
第一 営繕局成立前の出来事
(一)宮殿の避雷針
往時科学の未だ普及せざる時代に在りては、百般の事項について先輩の労苦は実に察するに余りあり。今宮殿建築の雷害に対する方案について常時の当局者は如何に焦慮したるか。左に往復公文書を掲げ、以て当事者の用意周到なりし事の一班を公示せんとす。先づ宮内省より工部省宛の文書は左の如し。
(中略)
之に対して工部省にては、電信当事者に向け次の如き通知を発し、宮内省へ相当の技術家1名派遣の儀を命じたり。
(中略)
然るに茲に手続上多少紛転ありしが如く見受けらる。先づ宮内省より直接工部省へ掛合来れるは、正当の手続に非ざりしが如し。よって宮内省は更に出直し、先づ正院へ伺出でたり。是において正院は工部省に左記命令を発したり。時に8月なりき。
(中略)
是において工部省は、当時の電信官吏豊島、中埜の両人と御雇外国人ストヲンとを宮中へ差遣わすことに為し、左の書面を正院へ進達したり。
(中略)
宮内省より工部省へ直接送附したる書面には雷除とあり。而して工部省より正院へ進達せし書面には避雷針とあり。又当時午前7時のことを朝第七字と唱えしことも注意すべき事柄なり。正院は工部省より右書面を受取り、即時宮内省に御都合を聞合せたる後、工部省へ差支無き旨を回答したり。
是においてストオンは、実地調査の後1872年第9月13日の日附にて、石丸電信頭に報告書を差出したり。依って電信部より山尾少輔に之を提出し同少輔より正院に進達したり。その書面左の如し。
(中略)
右に対し工部省へ左の如き通知ありたり。
(中略)
(二)虎之門と工部省
明治3年工部省新設されし以来、工部省は何処に在りしか不明なり雖も、工部省及び工部大学校に最も縁故深き虎之門が同省の所有となりしことは、明治4年7月たりしなり。即ち左の如し。
(中略)
斯くて工部省は明治4年7月より虎の門内に在りしなり。然るに翌年2月26日タ6字30分、即ち午後6時半に類焼して、虎の門外の勧工寮内へ一先づ同省を設けたるなり。
第二 工部省営繕局
明治3年閏10月新たに工部省を置かるるや、省内に勧工、鉱山、製鉄、灯台、鉄道、電信の諸寮を設けられたり。故に営繕事務は尚ほ依然として大蔵省土木寮にて管掌したるなり、然るに明治7年1月より営繕事務は総て工部省の管轄となり製作頭平岡通義の手中に帰したり。是において実際営繕の局に当りしは製作寮中の建築局なりしが、明治8年6月に至り営繕局となり同年11月30日独立して営繕寮となりたり。以後官制の改正に伴い、営繕局となり、最後に営繕課となりたるなり。
この如く諸官省の営繕事務は、工部省の管掌となりしが、唯、内務省の建築工事のみは、変則ながら内務省自ら決行したり。後明治10年に至り是もまた工部省の管轄となれり。之に関する公文書左の如し。
(中略)
是において工部省営繕局は、完然に諸官庁の建築工事を担当する事となりたり。蓋し明治7年3月以来内務省の手にて建築中なりし同省本庁舎は、明治9年12月14日竣工せしを以て、この期において工事一切を工部省に引渡したり。
第三 宮殿及び諸官庁建築の初案
明治6年5月5日皇城炎上せしを以て、翌7年12月に至り、宮殿再営の令を発せられ、同時に旧本城に諸官省建築を仰出だされたり。即ち最初廟議の決する所によれば、諸官省を一纏めに旧本丸に建築するの予定なりしを見るべし。今大蔵工部両省への御達を左に掲ぐ。工部省へのは
(中略)
次に大蔵省へのは
(中略)
斯の如く決定したるに拘はらず、種々の事情により即時設計に着手すること能はざりき。唯、諸官省建築と引離して皇居御造営については明治9年に至り設計着手に関し、次の如く通達ありたり。
(中略)
然るに御都合によりて、明治10年1月に至り皇居御造営の儀は延期の旨仰出だされたり。
第四 宮殿建築の再発令及び建築方法に関する論議
西南の乱も既に平定し、世は泰平となれるを以て、明治12年9月12日再び皇居御造営仰出され、且、その工事の分担を左の如く定められたり。時に同年10月2日なりき。
(中略)
是より先工部省よりは、9月13日即ち御造営発布の翌日太政官へ次の如き伺書を提出せられたり。
(中略)
工部省においては久しく皇居の御造営を鶴首し居たるを以て、時を移さず右の如き伺を立てたるなり。また赤阪仮皇居構内において建築中止中の謁見所についても伺に及びたるなり。蓋し同謁見所建築は基礎工事の不完全よりして壁に亀裂を生せし故、建築中止となりたるなり。さて此の伺に対して次の如き指令ありたり。
(中略)
これ10月1日附の指令なり。この指令に依れば謁見所建築は皇居建築地へ移転せらるる予定なりしなり。是において後日多数の加工石材が西丸へ運搬されたるが、都合によりその建築の引移は中止となりたり。蓋し新築謁見所は木造と決定されし故なり。次に26日附にて太政官より工部省への通達は左の如し
(中略)
斯の如く部署既に定まりしを以て、宮内工部の両省においては捲土重来の勢を以て着々調査に従事せしならんも、元来宮殿建築は最も慎重に経営すべきものなること勿論なれば、その当時当局者において頭脳を悩ましたり。それは煉瓦造石造若くは木造の中何れに依るべきかに在りたり。就中工部省の分担たる表向宮殿の建築様式については、甲論乙駿容易に決する所あらざりき。且、また当時我が国における洋風建一の学術は頗(すこぶ)る幼稚なりしのみならず、参考物もまた甚だ乏しかりしを以て、明治末葉における者の考うるが如き容易の業にはあらずして、非常なる難問題なりしなり。当事者の苦心は実に推察するに余りありと謂わざるべからず。
是において工部省営繕局長平岡通義は、和洋両建築の利害得失について広く意見を求めたり。先に言える赤阪仮皇居内の謁見所は石及び煉瓦にて建築する事とし、外国人某をして設計監督せしめたり。然るに工半ばにして壁中所々に罅裂(かれつ)を生じ、ついに工事を中止する等の事もありたればなり。
併してこの謁見所工事の失敗は、和風建築論者の堅固なる一大拠城たりしなり。明治12年4月8日附なる記立川知方の上申書にもまた此の事柄に論及せるを見るべし。
(中略)
以上立川知方の上申は頗(すこぶ)る冗長なれども、要するに石造煉瓦は耐震性に欠くる事大なれども、木造は頗る堅牢なる故、御造営は宜しく木造と為すべく、また赤坂に建築中の謁見所も二階を木造に変更すべしとの説なり。
斯の如く震災の見知よりして、木造の長所を採り木造論を主張する者少からざりしが、同時に他方においては火災防禦の立場よりして、木造の短所を絶叫する者また甚だ多かりき。斯の如く保守薫とも急進薫とも称し得べし両派相譲らざりしを以て、随って廟議もまた容易に決せず、調査に調査を重ね容易に起工の曙光を見ること能はざりき。斯くて十分に調査を重ねたる後、明治13年10月19日に至り宮内省より太政官へ左の如き上申書を提出するの運びとなりたり。
(中略)
斯の如く基礎工事のみにても百万円乃至二百何拾万円を要する事よりして、当局者は竟に木造説に傾きたり。経済問題を論拠とせしを以て、その説は頗る強かりしが如し。右上申に対し太政官は同年11月29日附を以て
上申の趣聞届候事
と指令したり。この指令に先立ち同年11月17日に工部卿山尾庸三、宮内卿徳大寺実則、工部少輔吉井友実、宮内少輔土方久元、営繕局長平岡通義、内匠課長桜井純造等宮内省に会し御車寄以下宮内省に至る迄表宮殿の分は工部省これを担当し、奥常御殿始め女官部居に至る迄宮内省之を担当し、総て日本造の計画を以て絵図面調製を議せり。依って此の日工部少輔吉井友実京都御所の宮殿結構を参照の為め取調の命を受け、宮内一等属嵐白川勝文、工部三等技手立川知方を率い京都に出発したりという。予め指令の様子を知りたる結果なるべし。
右の如く表向宮殿の建築は工部省営繕局にて引受け、奥向宮殿等は宮内省内匠寮引受くる事ととせり。是において一段落付きたりと謂うべし。依って両省当局者は各分担に応じ着々取調の運びに向いたり。
然れども両省分立は経済上その他の点において不便少からざりし故にや、明治15年5月に至り特に一局を設けられ、宮内省の外局として御造営の工事を総轄する事となれり。これ御造営工事の上における一進歩というべし。