第三節 皇城(P32-34)

工学会(1927)『明治工業史 建築篇』
第一編 建築沿革一般
第一章 維新前後の建築及び関係事件

 明治元年4月11日徳川氏江戸城を朝廷に致す。同10月12日西丸を行宮と称す。同13日車賀西城に入る。10月13日旧江戸城を東京城を称し、御東臨の日皇居と定め行宮の称を止む。明治2年3月28日東京城を皇城と称す。

 同6年5月5日皇城炎上聖上皇后宮火を吹上御苑滝見茶屋に避けられ、尋いで赤坂離宮に遷幸し給う。

第一 吹上御苑滝見茶屋

 両陛下の御避難遊ばされし吹上御苑の概略を記さんに、御苑の南方一大池あり。池中の東部に島あり。橋を架し之に伝う。島中東屋あり。藤棚を設け、石灯籠を配す。池畔北部に霜錦亭あり。その東北に吹上御茶屋あり。その後に観瀑亭あり。これ即ち吹上滝見茶屋なり。亭前西方に瀑を望み、瀑水流れて池水となる。池中小島点在し、池の北西土地次第に高く、道に従い登れば駐春園に出づ。その西方更に土地高く暫くにして梅林あり。林の附近に寒香亭あり。東方一段高く望岳台あり。近く霞関一帯を見下し、快晴の日遠く富士を望むべし。

第二 赤坂離宮

 皇居炎上の為め御遷幸あらせられたる赤坂離宮のことを次に述べん。

 赤坂離宮の大半は、紀州和歌山藩主徳川茂承の所有たりしものにして、苑囿の名を西苑と称し、尾張徳川家の戸山荘及び水戸徳川家の後楽園と共に、德川三家の江戸における三大名園と称せられしものなり。

 西園の創剏落成の年月ならびにその規模等について今確かなる徴証なしと誰も、明治維新前後における大体の規模は江戸赤坂庭園全図に示す所のものと大差なかるべし。之れによる時は旧名を存するものは御茶屋に洗心亭あるも旧時の位置にあらず。

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