第二節 皇居御造営事務局(P92-97)

工学会(1927)『明治工業史 建築篇』
第一編 建築沿革一般
第二章 工部省時代の建築及び関係事件

第一 同局の成立及び局員組織

 明治15年5月27日皇居造営事務局を置かれたり、後幾何も無くして皇居御造営事務局と改称されたり。最初は規模頗る大にして質に堂々たる状態なりき。統ぶるに総裁及び副総裁を以てしその下に局長を置きて専ら局務に当らしめ、尚お監事2名を置きて局長を輔けしめ、一は表向、一は奥向を分担せり。随って建築課長及び庶務課長も最初は二名ありたり。而してその他局員もまた性質上二派に分れたるを以て工部及び宮内両省より転任若くは兼任せしもの甚だ多かりき。而して最初の総裁等は左の如し。

 総裁 三条実美
 副総裁 榎本武揚
 局長 杉孫七郎
 監事 平岡通義・桜井純造
 建築課長 白川勝文・森山武光
 御用掛 麻見義修
 庶務課長 大野利新・穂波某
 主計課長 中沢則武

等実に整斉堂々たりしなり。而して建築専門家には御雇教師英国人ジェー、コンドルありて、建築設計用務を担当せり。コンドルは事務局勤務中は熱心設計等諸般の用務に従事し、設計等において実に用意周到なりき。当時和洋建築の優劣論喧しかりし故、煉瓦壁体内に鉄棒を縦横に挿入することの案を立て、その模形を造り、以て地震に対する抵抗を増進することの策を立てたり。その他化学専門家を聘して建築材料を調査せしむる等、毫も遺漏無きことを期したり。尚ほ地質検査を行うに当り、我が国未曽有の水圧試験を施し、地質の耐圧力を確めたり。豊明殿附近等の地質検査は即ちコンドルの指導により局員の行いたるものなり。以てこの如き大建築物の基礎の安全を確保することを得たるなり。

 当時進步思想を有せし榎本武揚が副総裁の椅子に就きしことは、洋風建築の一部復活の気運に転ぜしが如き観無きにしもあらざりき。後宮内省庁舎の煉瓦造と確定せし如きは、毫もこの事に関連せざるものとは言い得ざるべし。

 然るに複本武揚は永く副総裁の椅子に居ること能わず、就任後久しからずして外国に対する国家的重大用務の為め他職に転じたり。依って副総裁たりしは一時的なりき。

 是において宍戸璣副総裁の椅子に拠ることとなりたり。この如く組織の頗る堂々たりしに拘らず、明治15年開局以来永く予備調査を進むるのみにて実地起工の運びに至らざりき。これ一は和洋両式の孰れが優れるかの論再燃したる等に因り、建築上の大方針に動揺を来し終に荏苒(じんぜん)予備調査を繰返すのみなりき。

 然るに明治17年に至り初めて大体の方針決定し、その年の4月14日、皇居御造営の縄張及び図面の天覧ありて勅裁を経て終に事定まれり。是において同月17日地鎮祭を行い、各員分担の任務に鋭意邁進することとなれり。

 斯の如く工事実行の途に就きし際には、既に事務局の組織頗る縮少されし後にして、御雇教師コンドルも既に去り裁総、副総裁の椅子も廃せられ、課長の椅子も一座となり、最初の組織の尨大なりしに比しては頗る縮小されたるなり。その時

局長 杉孫七郎
監事 平岡通義
庶務課長 大野利新
建築課長 白川勝文
主計課長 中溝則武

等なりき。唯、時代により職名に変遷あり、また人にも異動ありし故、之を具に挙ぐることは却って煩にして益なき事なれば省略せり。その中監事平岡通義は最初より最後まで局務に鞅掌(おうしょう)し、工務を一身に引受けて専心誠意事に当り、終に能く大工事を遂行し得たり。大野利新白川勝文もまた終始工務と事務との任に当り熱心鞅掌したり。

 斯くて工事竣功に近づくに及び明治20年12月24日皇居御造営事務局は廃され、残業は宮内省内残業掛において取扱いその掛長は

 皇居御造営残業掛長 内匠頭 堤正誼

にてありき。亜(つ)いで明治21年10月10日全く竣工したり。

第二 同局工事実行上の組織

 皇居御造営事務局は、明治15年開局より同20年廃局までの間において組織上多少の変遷はありしが、先づ主なる時代においては工事関係者を四部に分類したり。即ち第一部奥向宮殿第二部表宮殿第三部煉庭造宮内省庁舎第四部土木工事等是なり。

 尚お建築材料の如き共通のものにありては監材掛あり、その他暖房掛及装飾掛等ありたり。

 立川知方及び中村一正は第三部の工事に関係せしが、その中中村は工事の初において逝きたり。木子清敬は第一二両部の衝に当り樋口正峻と中村茂雄は監材掛として奮闘したり。田中林太郎は終始暖房工事に従事したり。而して第三部に関係せしは新家孝正、河合浩蔵、中村達太郎、高山幸治郎等にして、また久米民之助は第四部に在りて橋梁その他土木工事を担当せり。

 また装飾意匠については山高信離主として之に任し、掛員を率いて意匠惨憺たりき。天井欄間等の意匠の如きは全く山高その他掛員の苦心の結晶なりというべし。

 辰野金吾は初期において装飾取調の任を負いしが、後に日本銀行建築の用務を帯びて洋行せしを以て、実行の際には携らざりしなり。

 片山東熊は末期より関係する事となり、専ら家具その他装飾物類の監督を担当し、その為め独逸に特派されたり。蓋し家具類は総て刺賀商会を経て独逸の商人カール、ローデに註文せし故なり。尚お御造営廃局後宮内省大匠師となりて残業掛の一人となれり。

 中村達太郎は第三部の建築に開係せしのみならず、監事平岡通義の手足となり、相談相手となり、外国との電報往復及びその他専門的対話交渉について参与せり。随って勢い諸方面に関係せしなり。在独過国の片山東熊より電報にて宮殿表向の窓硝子をステインドグラスに為したしとの上申ありし際、室内照明欠を増すとの理由にて平岡は中村の言を納(い)れ、不承諾との返電を為したる如きは、後世技術上より考えて、功罪孰(いず)れなりしか後人の判断に任すべし。

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