第一節 西洋建築法伝来の経路(P1-8)

工学会(1927)『明治工業史 建築篇』
第一編 建築沿革一般
第一章 維新前後の建築及び関係事件

第一 概説

 明治末年より遡り約半世紀前、外国と互市を開きたる以来、本邦百般の事物漸く革新の気運に向い、官私の別無く挙って泰西の文明を取入れ、盛に国力の培養と民衆の福利増進とを企図したるを以て、数年ならずして因循姑息の旧套を脱し、国民挙って漸く文明開化の風潮に浴することを得るに至れり。

 是において、制度文物の変革に伴い、建築法においてもまた相当の推移を免れざるや必せり。然れども建築物は固定物にして物品の如く容易に変更し得るものに非ず。是故に明治初年においては暫く旧事の遺構を応用し、唯焦眉の急なるものより改造若しくは新築に着手し、斯くて漸を追って泰西の建築法を輸入するに至れるなり。乃ち官衙その他学校等においては、従来の座式を改めて腰掛式をなせるが如き、最も早く行はれたる革新なりとす。随って建築物自身もまた従来のの如き低き天井たることを得ず。斯くて即座に之を高むることの必要生じたりき。然れども一般住宅においては、本邦因襲の久しき、容易に洋風に浸染するの気運に向わず、明治年代終焉の時においても尚お従来の建築法却て盛に用いられ、洋風住宅の如きは僅に一部に止まれるのみ。

 之に反し、官庁公署その他公共建物においては期せずして何れも西洋風に則り、急速改造の途につきたることは勢の免れざる所なりき。

第二 伝来経路

(一)仏国風

 始め我が国人は何れも煉瓦の如何なるものなるかを知らず、況やその築造をや。然らば即ち如何にして泰西の築造法が我が国に伝来せしか、その概況を述ぶることは建築史家の一義務なりと信ずるなり。

 抑、幕末において旧幕府は製鉄所の必要を認め、横須賀及び横浜に之を設け仏国技術家をして専ら之を画策策せしめたり。随って明治元年新政府の手に帰するに至ても、仏国技師等は尚お依然としてのその工事に従事したりき。是において我が国人なる職工輩もまた工場に出入して工場建築等の模様を目撃し、又は直接工事に携わり、斯くて築造法の呼吸を会得せしもの甚だ多かりしならん。我が国の古き洋風建築において仏国人の手に成りしもの少からざるは故なきに非ざるなり。

 明治4年10月造船権頭となり同年11月12日横須賀在勤仰付られ、その造船所長となりたる平岡通義はその後同5年10月造船所を工部省より海軍省に転属せしめられたる時迄、造船頭として鞅掌されたる人なるが、共の談に曰く、廟議は従来の船渠の外に尚お一を増築することに決し、明治4年11月21日起工式を挙行せり。その基礎石は太政大臣三条実美之を据え、遺漏なくその式を了せり。爾来通義は同所の改革を図り、先づ、雇外国人の専横を抑制しその権力を減殺することの急務なることを看破せり。蓋し当時専ら外国人の計画に任せたるが故に、大は造船工場の建築より小は材料購入の雑務至る迄、一切之を外国人に委ねたり。故に旧幕府の時、仏国より雇聘せる技師等32名の者は維新後も依然として諸般の業務に闊歩し往々長官の命に忤い、専横の処置尠なからざりき。通義が長官となるに及び、断然意を決して先づ技術上に支障なき諸般の業務は、彼より奪いて我が手に収めたり云々と。平岡通義は後、工部省営繕頭をなり終始建築に鞅掌したりき。

 されば前記多数の技術家中には建築家若しくは土木家の在りたるや疑なし。これ維新前後において仏国風家屋築造術の我が国に伝はりし一経路なりとす。

(二)英国風

 明治元年閏4月、政府は造幣局設立の取調をなす。此の時恰も香港の造幣局は創立後期年ならずして廃局となりしかば、参与会計官判事三岡八郎(後由利公正)命を奉じて外国事務局判事五代才助(友厚)寺島陶蔵(宗則)に託し、香港にある造幣機械を代金六万両にて購入せんことを英商ガラバと約定せしめ、横浜裁判所御用係上野敬輔(景範)を同地に派遣して機械及び建築材料を大阪に移さしめしが、10月下旬に至りて到着せり。

 その時英商ガラバの推薦に依り英人ウォートルスを建築の設計及び監督に任じたり。是において英国の技術家ウォートルスは明治元年8月造幣局の建築に着手せしが中途工場火を失し、惜い哉全く烏有に帰したり。依て再築を経て明治4年2月造幣寮の建築は竣工したり。

 斯くて明治初年来朝せし英人ウォートルスは、最初造幣寮に従事せしが、その後も尚お大蔵省御雇として銀座尾張町の改築工事に尽瘁し、我が国建築技術界に貢献せしこと多大なりき。又東京において最初の煉瓦造なりし永楽町の分析所(後俗に龍之口勧工場と唱う)もまた同人の設計施工せしものなりきという。

 是において我が国の職工等は容易く実地について英国風の建築術を習得し得たるなり。即ち知るべし英国風建築術の我が国に将来せしは全くウォートルスの功に帰し得ることを。依って之を英国風伝来の第一経路なりとす。

(三)米国風

 是より先橫浜の開港せらるるや民間における外国人住宅建築等の為めに外国建築技手は早く既に入国して、民間工事に従事せしものありたるが如し。是において邦人の既に建築の素養ありし者は、之を好機として之に関係を結び、以て建築術の大要を会得し、能くその収穫を咀嚼し、以て遂に新機軸を出して好き建築を設計したる者尠なからず。例えば工部省時代において諸官庁建築を設計せし技手林忠恕の如きは慶応初年横浜に至り、英人ドール及び米人ビールジンスについて建築法を習得したりと言う。その結果忠恕の設計せし木造官衙建築極めて多かりき。

 兎に角明治初年前後においては、米国風の木造建築に感染せしこと頗る多かりしが如し。その頃の仕様書即ち工部省設立前後のものを見るに自然その感を起さざるを得ざるなり。例えば下見張の仕様において「外廻り米利堅下見杉六分板云々」とあり。又「アメリカ下見云々」ともある。而して「イギリス下見」又は「西洋下見」なる言葉を用うるに至れるは、明治10年前後より後なるが如し。是において米国風の木造建築は我国に伝来せし魁なりしこと疑なきが如し。

 明治年代において建築請負業の第一人者として認められたる清水喜助もまた維新前既に横浜に至り、外国人について建築法を習得し能く之を咀嚼し、換骨脱胎以て之を実地に応用せしこと少からず。彼の第一国立銀行の前身なる三井為替会所の建築及び三井銀行の前身なる三井組の建築の如きは喜助が独創を以て計画せしものにして、当時新基軸を出したる好模範の建築なりしなり。

 以上にて仏英米各国風建築法の我が国に伝来せし経路を了解することを得べし。

(四)伊国風

 然るに之に加うるに又一新時期の到来せるあり。即ち明治9年工部省において美術学校を創設し(明治15年廃校)絵画及び彫刻の二学科を設置せられたり。是においてその教師として伊太利人を雇入れたるを以て、自然芸術家なる同教師は建築図案にも手を延ばすに至れるなり。例えば九段坂上の遊就館及び参謀本部を設計せしは同校の予科教師カッペルジーなる伊太利人なりき。然れども伊太利建築家の影響は微少にして而も永続せざりき。

(五)工部大学校造家学科

 次に工部大学校において造家学科(即ち明治末期の建築学科)を設けられたる結果、明治9年我が国政府の招聘に応じて英国人ジェー・コンドル来朝し、同校の教師となりその傍工部省御雇になり、且宮内省にも勤仕せしかば諸官衙等の建築を設計したること少なからず。是において英国風の建築法勃興するに至れり。如之ンドルの教を受けて工部大学校を卒業せしもの明治12年以来続いて世に出て建築・実施に当れるもの輩出したり。又諸設備についても漸次学理的応用に依り益建築法の進歩発展を見るに至れり。且、工部大学校卒業者中外国へ渡航する者漸を以て多きを加へ、建築学上兪々新智識を加え得るに至れり。

 斯くて建築学術の正則に我が国に伝わりしことは明治9年に胚胎すと言うことを得べし。

(六)独国風

 然るに霹靂一声忽然として沈静を破る事件突発せり。時是れ明治20年、政府新に臨時建築局を置き国会議事堂及び諸官衙を建築せしむるに当り、時の建築局総裁井上響は、独逸より建築技師エンデ及びビョックマンを招き、技術上の事は総て両人に委ねたり。且又邦人の技師及び学術の素養ある高等職工を独逸に留学せしめたり。是において独逸風の建築法大に流行するに至れり。

(七)米国風

 その後明治末年に至り、米国風の鉄骨構造及び鉄筋コンクリート構造漸く散見するに至れり。然れども未だ大正年代の如く盛なるには至らざりき。


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