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早霜の幻影

序章

仏壇に水兵帽を被った祖父の兄(伯祖父)の遺影がある。
伯祖父は1945年2月15日マニラで戦死、と書かれた紙だけが残り遺骨も戻らなかったと聞いていた。
もうすでに祖父も亡くなってしまったが唯一、只の一回だけ祖父の口から「伯祖父はくちくかんはやしもにのっていた」と言う話をしてくれて、その日の夜「くちくかんはやしも」とは何ぞやと当時一般家庭に普及し始めたインターネットを使って子供なりに調べた記憶がある。

駆逐艦 早霜


艦の来歴なりエピソードはWikipediaなどを見て頂きたいのだが、他の艦に比べて謎が多い事で有名らしい。じゃあなぜ今頃この駆逐艦について調べようと思ったかと言うと数年前から「駆逐艦早霜の船体がまだ現存しているかも」という噂が流れたからだ。


wikipediaによると早霜が沈んだ(厳密には座礁)場所はフィリピン セミララ島。ミンドロとボラカイに挟まれたこの小さな島は石炭などの鉱物を採掘するためだけの島になっていて観光客はおろかフィリピン人に聞いても「あんなとこはよういかん」 と言われる始末。
では何故そんな辺鄙な島で座礁、破棄された艦の話が注目されたかと言うとセミララ島の西、イトガオ湾でグーグルが捉えた衛星写真がその発端だった。

ミンドロとボタカイに挟まれた小さな島
中央にイトガオ湾が見える


衛星写真に写る謎の構造物

それがこの写真、確かに大きさや形を見てみても船が座礁しているようにも見える。Wikipediaにもこの構造物についての項目がある。

では実際に早霜が座礁した写真を見てみよう、戦後米軍がカメラで記録していた写真は今の所3枚のみ

注目したいのが1枚目すぐ後ろに見える小さな島。早霜とされる構造物がある場所周辺にはこの島が無い

北緯12度4分5.3秒 東経121度22分8.8秒

イトガオ湾のだいぶ内側で、実際の早霜の写真とは状況が違うように思えたのでグーグルマップで周辺を調べてみるとイトガオ湾の沖に似た島を見つけた

イトガオ湾の沖にあるダリト島

多分島の形状的にここだろう、実際の写真と照らし合わせるとそれぞれの写真に写る島の名前まで判明する。つまり、Wikipediaにまで記載されているこの衛星写真に写る構造物は早霜ではない、と私は推論します。

船体左後方から見た際に映るであろう島
上の画像と照らし合わせるとこのようになる

擱座地点の座標もWikipediaにある北緯12度4分5.3秒 東経121度22分8.8秒ではなく北緯12度4分22.8秒 東経121度20分52.4秒になると思われます。

本当の座礁地点に早霜はあるのか


では本当の座礁場所はどうだろうか、見たところマングローブが多く残り浅瀬が多く、開発も進まないこの島なら本来の場所にまだ残っている可能性も否定できない。
仕事柄フィリピン人とコミュニケーションをとる機会があるが彼らは日本人以上にどこに行ってもその状況をSNSに写真をアップする事を思い出した。もしかしたらセミララに住む人間も同じことをしているのではないか?
そしてみつけた、Youtubeに。

彼らはアイランドホッピングと言って島から島に渡り、泳いだりBBQしたりする事が多いようで添付したURLの映像もセミララから早霜が擱座したダリト島までボートで渡りBBQを楽しんでいる。

イトガオ湾の出口にあるバタカルビーチ

この動画を見ていると途中バタカルビーチを通りダリト島を目指している、おおよそこの経路だろう

結論

座礁していたと思われる場所を俯瞰して見たところ。


座礁していたと思われる場所には何も映ってはいない。

それを踏まえてこの映像を見てみると本来の座礁地点には海面から出ている構造物は何もない、グーグルマップの衛星写真を見てもそれらしきものは見当たらない、つまり早霜は米軍の調査が終わった後に解体、もしくは現地のくず鉄屋にサルベージされて きれいさっぱり解体された、と考えるのが妥当だろう。


最後に

早霜の乗員はその後どうなったか今でもはっきりしておらず、そのまま艦に残ったもの、島を渡りマニラまで向かい陸戦隊として地上で戦ったもの、色々な話が残っている。実際伯祖父も座礁するその日まで艦に残っていたのか、途中で降りマニラの陸戦隊に配属替えになったのか、もっと言えば早霜に乗っていたという事自体、祖父の妄言の可能性もある。ただいつか、ここを訪れるチャンスがあるのであれば献花する場所くらいは間違えないようにしなければ、と思った次第です。



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