ナショナリズムの復権を読んで
ナショナリズムの復権 著:先崎彰容 ちくま新書
ナショナリズムにおける3つの誤解
①ナショナリズム=全体主義
②ナショナリズム=宗教
③ナショナリズム=民主主義
この本は2013年に発行された本であり、著者が東日本大震災後の日本の状況を憂いて書かれた本だと思う。多くの被害が生まれた震災、周辺国からの武力によるプレッシャーと日本の対応などから社会の基盤としてある国を『ナショナリズム』という言葉から掘り起こして見直している。言い換えると国のあるべき姿を『ナショナリズム』という言葉を通じて問い直しているように思える。
『ナショナリズム』を問うために先に掲げた三つの視点で本書は考察されている。
①ナショナリズム=全体主義に関してはハンナ・アーレントの『全体主義の起源』などから考察されていた。乱暴な言い方かもしれないが、全体主義とは『負い目』から生まれていると思う。大航海時代にイギリスやフランスからアフリカに移住した人たちは、本国のはみ出し者ででありある意味で既存の社会から逃げてきた人と言える。しかし、そんな人たちがアフリカでこれまで出会ったことのない生き物(原住民の人々)と出会い、価値観が揺らぎ自分の中の自分が揺れ動き、本国にも帰れない負い目から差別を生み全体主義へと発展していった。また、ドイツやロシアは国としての『負い目』を持っている。帝国主義により海外派遣を握ったイギリスやフランスに対して産業構造や政治構造の移動が遅かった彼らは国としての負い目を持ち、自国のアイデンティティを確立するため、過去にすがり全体主義へと発展していったと考えられる。
結局のところ、自分の中で立ち返るものが『ある』か『ない』かによって人の行動とは左右されるものであり、人として組織として立ち戻るアイデンティティを持つことが大事なんだろうと思う。
②ナショナリズム=宗教に対する誤解に関しては、吉本隆明の『共同幻想論』、柳田国男の『遠野物語』などから考察している。まず、『死』というものを持ち出し、死が個人幻想から生まれることを遠野物語から論じ、そのあと個人幻想が共同幻想に発展して全体主義に生まれ変わることを共同幻想論を用いて話をしている。『死』というものを通して信仰を語り、信仰が全体主義へと向かうコトを論じていたと思う。一方で、ナショナリズム=宗教を認めている部分もあった、柳田国男が日本の伝承や風土を研究していくなかで、死者が人や地域を見守る考え方が根付いているコトを論じている。
③ナショナリズム=民主主義に関しては、なかなか難しかった。民主主義は必要であるが、理想とする民主主義にたどり着いていない現状を論じているようにも思えた。その辺を江藤淳、丸山眞男と言った戦後の思想家の思想を使って論じている。正直、江藤淳や丸山眞男と言った人たちのことを始めて知った僕にはなかなか手ごわかった。ただ、江藤淳の言葉がこの本で一番印象に残ったので記しておく。
これは、江戸時代の朱子学者である藤原惺窩(ふじわらのせいか)に関する記述で書かれていた。
藤原惺窩は『新古今和歌集』の編纂者である藤原定家の子孫であり貴族の家柄を持つ歌人だった。また禅僧でもあった。その惺窩の持つ土地を豊臣秀吉が武力によって略奪する事件があった。
武家の世の中にあって公家はどう生きるのか?そして、徳川の時代になり、新しい秩序を生むため、中国から朱子学(儒教)を取り入れようとしていた。
新しい時代(武家・儒教)の中で古い時代(公家・仏教)を生きてきた惺窩は、古い時代に固執せず新しい時代に自分の身を投じて行った。その中で公家や仏教をどう生かすか?そんな生き様を捉えた江藤の文章が僕の心をつかんだ。
藤原惺窩の生き方は敗戦によりゲームチェンジした戦後日本に通じるものがあり、東日本大震災以降の日本にも同じことが言える。ナショナリズム=民主主義において、大事なのはゲームチェンジ前を否定するのではなく、肯定したうえでゲームチェンジ後の世の中をどう生きるか?人の生きざまを問うているように思える。
非常に引用が多く、理解が追い付かない難しい本だったが、こういう難しい本を読むことも自分の理解力や読解力を育てる訓練になると思う。また、こうやってアウトプットすることで改めて自分の中で整理することが出来るので、良かったと思う。
ナショナリズムの輪郭はまだまだ見えていないけれど、『自分の拠り所となるもの』を確立することが大切であり、『拠り所』を持って社会に対して柔軟に生きていくことが大切なんだと感じた一冊だった。