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それは遥か彼方の静穏の夢



 夢を見た。
 遥か遠く、ここではないどこかの、静かで穏やかな黄昏の夢を。


   ◆◇◆


 夕暮れの帰り道。
 周囲には麦の海が広がっていた。
 大粒の実を宿す穂が涼しい風と一緒に、音を立てて揺れている。西の彼方に沈もうとする日の光によって黄金色に輝く光景は、まるで御伽噺の中で語られる天界のようだった。
 辺りをぼんやりと眺めていたベルは、そこでふと、隣にいる人物を見上げる。

 目が覚めるような美しい女性だ。
 髪は灰色で、長い。
 彼女は薄汚いと嫌っているようだが、ベルは好きだった。
 瞼は常に閉じられている。
 目を開けずどうして生活できるのだろうといつも不思議に思っているが、彼女が言うには「瞼を開けることですら疲れる」のだそうだ。
 身に纏う漆黒のドレスはこんな山奥の中にあって、酷く異彩を放っている。

 見れば見るほど美しい女性だった。
 そんな女性と、手を繋ぎ、二人きりで歩く。
 ベルは、彼女の横顔を見上げながら、口を開いた。


「ねぇ、おばさん」


 ドゴッッ!! と。
 ベルの頭からヤバイ音が鳴った。


「殴るぞ?」
「もう なぐって います!!」


 ベルは頭の天辺を押さえて泣き叫んだ。
 瞬きの間とかそんな次元じゃない神速の拳は『殴られた』という結果だけを残す!
 防御も回避も知覚も不可能!
 それほど彼女とベル(幼児)の生命としての格は隔絶している!!
 頭頂部を貫通して全身に轟き渡る衝撃! 痛み! 苦しみ!
 これぞ福音拳骨ゴスペル・パンチ!
 信じられるか? 超短文詠唱より速いんだぜ!

 目尻に涙を溜めるベルの視界にいくつもの星が散り、雪の上を滑って転んで岩に激突した兎のように悶絶する。
 そんな中、彼女は居丈高に見下ろしてきた。


「私を呼ぶ時はなんと言えと教えた? ん?」
「…………アルフィアお義母さん」


 よろしい、と。
 彼女は――アルフィアはベルの小さな手を握り直した。


「それで? 何を言いかけていた?」
「……なぐらない?」
「話を聞く前からわかるものか。だが不快だったら殴る」
「こわい!」
「ならば叩く」
「それも きっと いたい!!」


 ベルは経験談から叫んでいた。
 なにせアルフィア、そして大男のザルドと出会ってから今日までの三年間、一日たりとも生傷が絶える日はなかったからだ。
 アルフィアは静寂をこよなく愛する、神経質な『女王』だった。
 口より先に手刀が飛んでくるのは当たり前。
 彼女が白と言えば黒いものも真っ白となる。
 アルフィアをイラつかせないというのが三年前から設けられた我が家のルールで、この前などベルが祖父と一緒に騒いでいると、椅子に座って黙って読書をしていた彼女はパタンと本を閉じ、


『五月蠅い』


 と言って、この世の終わりのようなデコピンを繰り出した。
 ベルは真っ暗になって沈黙した。
 そして彼女の膝の上で目を覚ますと、祖父は壁に突き刺さって腰から下しか見えなくなっていた。ザルドは見て見ぬフリをして鍋をかき混ぜ、夕餉のスープを作っていた。食にこだわるザルドの料理は絶品なのだが、静まり返った食卓で最後の晩餐のごとく頂く料理は、生きた心地がしないから何の味も感じられなかった。ちなみに祖父は壁に突き刺さったままだった。ベルは自分の手が震え出さないようにするのが精一杯だった。


「あまり騒ぐな。またデコピンをするぞ」
「ひぃっ」
「私は雑音が嫌いだ。必要なことだけを粛々と報告しろ」
「イエス・マム!! サーセンッシタァ!!!」
「……何だ、それは? 誰から教わった?」
「お、おじいちゃんが、こう言えって……」
「あの糞爺め。ベルの教育に悪影響しか及ぼさない癌。やはり魔法で三つ山の向こうまで吹き飛ばすか」
「やめて! おじいちゃんが死んじゃうからヤメテ!!」


 中でも、ベルの面倒をずっと見てきた祖父と、アルフィアの相性は最悪だった。
 暴れるベルを引きずってアルフィアが風呂に入ろうとすると、『儂も一緒に入る☆』と祖父が飛んできて、一秒後には家から強制排除される。侵入を禁止すべく畑の真ん中に首から下を生き埋めにする徹底ぶりだった。
 他にも、アルフィアがベルと一緒に寝ようとすると、『儂もベルと一緒に寝るゾイ!』とベッドに入り込もうとしてきたが、


『【福音】』


 その一言で全てが終了した。
 壁と屋根が消えた。というか家が消えた。ベルの部屋の床とベッドだけが残り、綺麗な星空が見えた。アルフィアの抱き枕となるベルは仰向けの姿勢で、一睡もできずガタガタと震えていた。
 翌朝、破片の海の中で祖父とザルドがズタボロになって倒れ伏していた。
 それからアルフィアに逆らう者は誰もいなくなった。
 ちなみに家はもう十回ほど建て直している。


「手は出さないから、話してみろ」


 アルフィアに引っ張られる形で、歩みを再開させる。
 夕暮れの光に目を眇めるベルは、思いきって、けれどおずおずと、尋ねてみた。


「ぼくの、ほんとうのお母さんって、どんな人だったの?」


 ベルは母親のことを何も知らない。
 物心ついた時は、側にいたのは祖父だけだった。
 悲しい、と思ったかはわからない。だが、寂しい、と思ったことはある。
 でも、今はもう大丈夫だ。
 ベルにはアルフィア達がいるから。

 だからそれは、ただの純粋な疑問だった。
 ベルの母親のことを一番よく知っている彼女に、聞いてみたかった。
 アルフィアは歩みを止めず、前を向いたまま、しばらく時間を置いた。
 それから、ゆっくりと唇を開いた。


「優しいやつだった」
「やさしい?」
「ああ。いつも笑みを浮かべ、ただいるだけで他者の心を解きほぐした。病弱で、しかし儚さを感じさせず、普通のことを言っているだけなのに、あぁそうかと間違いを気付かせてくれる。不思議と誰からも愛される、とても白い女だった」
「しろい……」
「だが、食べ物の恨みだけは凄まじかった」
「えっ」
「あいつが楽しみにしていた甘味を、私がこっそり食べてしまったことがあってな。あの時のあいつは竜の息吹を吐きかねんほどだった。私は初めて死を覚悟したよ」
「えっ」
「同じ理由でヘラ……とある女神も石の床に直接正座させられてな。あれは本当に見物だった。あの傲岸不遜な女が、屈辱で身を震わせながら涙を溜めていたのだから」


 聞き捨てならない台詞にベルが目を点にする一方、アルフィアの声音は穏やかだった。
 いつになく口数が多く、その口もとには笑みの気配すらある。
 そこには確かな愛があった。


「誰かの手を借りなければ生きられなかったからこそ、お前の母親は『生きる』ことの尊さを忘れなかった。己を卑下せず、感謝を忘れず、地獄のような苦痛にも屈せず……笑みを浮かべながら、今を生きることを誰よりも噛みしめていた」


 だからお前の母は誰よりも優しかった、と。
 ベルが病を知らず今日も健やかに育っているのは、他でもない母親のおかげなのだと、アルフィアはそう教えてくれた。


「……本当はな。私は、お前と会う気なんて更々なかったんだよ」
「――えっ?」


 言葉が途切れ、静穏の時が流れた後のことだった。
 夕日に照らされた二人の影が伸びる中、アルフィアは追憶の念に負けるように、その胸の内を明かしていた。


「お前の前に姿を現すことだけはすまいと、そう思っていたんだ」


 言葉の意味を理解するのに時間を要したベルは、泣きそうになった。
 それは母親がいない寂寥を上回る悲愴感だった。
 村の外れにある家に自分と祖父の二人きり、英雄譚を読んでもらっては物語の住人に寂しさを癒してもらう。
 もしかしたら、そんな未来があったのかもしれない。

 けれど、彼女の温もりを知った今では、無理だ。

 目を瞑ったまま、ちっとも笑わず、けれどぎこちない手つきで、ベルを撫でてくれる。
 小言を口にしながら、時には仕置きをし、それでもいつもベルの小さな手を握って守ってくれる。
 ベルに『母』を教えてくれたのは、神経質で、我儘で、乱暴で、とても不器用な目の前の女性だ。
 だから、そんな悲しいことを言わないでほしい。

 ベルは目尻に涙を溜めて、隣を歩くアルフィアを見上げた。
 ――それじゃあ、どうして自分の前に現れたのか。
 漏れ出そうになる鼻水が邪魔をして、そんな言葉を喉につっかえさせていると、アルフィアは答えてくれた。


「魔が差してしまった。妹の残した子が気になって、ザルドと一緒にこんな山奥に訪れてしまった。遠くから、本当に一目見て、去るつもりだったんだ」


 そう口にして、彼女は珍しく唇を曲げた。
 自嘲の形をした笑みだった。


「だが、お前のその『白い髪』を見た時、もうダメだった。私は込み上げてくるものに耐えきれず、気付けばお前の前に立っていた」


 ベルは、アルフィアと出会った日のことを今でも思い出せる。
 今日みたいな夕暮れの時、ふと振り向いたベルの前に、彼女は呆然と立っていた。
 名前を聞かれ、丸い頬に手を添えられ、そして静かに抱きしめられた。

 その時のアルフィアは涙も嗚咽も漏らさなかったが、ベルには泣いているように感じられた。
 だから短い腕を彼女の背中に回し、抱擁を返した。
 彼女の体からはどこか懐かしい香りがした。
 いつの間にか、ベルの方が泣いていた。

 それがきっと『岐路』だ。
 もし“魔が差さなかったら”、アルフィアは本当にベルの前に現れなかっただろう。
 二人の運命は交わらず、何も知らないまま、物語は続いていた。


「お前はメーテリアによく似ているよ。お前のその白い髪も、顔も、笑みも、全て母親譲りだ」
「お母さんの……」
「ただ一つ、瞳だけは父親のものだ。……その赤い目を見るたびに、私は無性にくり抜きたくなる」
「ひえっ」


 一瞬、不穏な空気を醸し出したアルフィアにベルは怯えた。
 どうあっても父親のことは聞けそうになかった。


「……僕は、アルフィアお義母さんとも、ザルドおじさんとも、はなれたくないよ」
「お前が永遠を願っても、神ならざる我々では叶えられない。私たちは不変ではないからだ。ずっと一緒にいることは、できない」


 アルフィアの話にずっと耳を傾けていたベルが、縋る思いでそう言うと、アルフィアはやはり淡々と答えた。


「お前が望まずとも、別れは必ず訪れる。それを忘れるな」


 ならば『その時』は近い。
 ベルはそう思ってしまった。

 だって、アルフィアの咳の数は増えていた。
 誰もいない場所で彼女がよく咳き込んでいることを、ベルは知っていた。
 その中に赤い血が交ざっていることも、知っている。

 ベルは今年で七歳になる。
 アルフィア達と出会って三年。
 別れの時が迫っている。
 胸が張り裂けそうな思いと一緒に、ベルはそれを悟ってしまった。

 会話が途絶える。視界の全てが黄昏に染まっていく。山稜にかかる夕日がとても眩しくて、泣き虫のベルはまた瞳を潤ませた。
 握り返してくれない手をぎゅっと握りながら、もう僅かもない家路を進んでいく。
 何も喋ってくれなくなったアルフィアの静寂が嫌で、ベルは必死に言葉を探した。
 だから、最後にもう一つだけ、尋ねた。


「きのう来た、神さま……帰っちゃって、よかったの……?」


 前日のことだ。
 とある男神が、ベル達の家を訪れた。
 一部灰がかかった漆黒の髪。纏う衣も黒く、まるで闇の中で暮らす住人のようだった。
 顔は酷く整っていて、同性のベルも目を奪われてしまったが、ちっとも笑わないその相貌が何だか怖かった。
 アルフィアとザルドを探し出したという男神は、彼女達と何か難しい話をしていた。
 いつも騒いでばかりの祖父も、その時ばかりは静かだった。
 そして、話を聞き終えたアルフィアとザルドは黙りこくった後、


『帰ってくれ』


 と告げた。
 そして二人とも、もの悲しそうに『すまない』と謝っていた。
 男神は眉を下げ、そこで初めて笑い、


『謝るなよ』


 と言った。
 どこか残念そうな、けれど安堵したような表情で、あっさりと帰っていった。


「……ああ。あれでいいんだ」


 尋ねられたアルフィアは、静かに頷く。


「私はもう、お前を選んでしまった。お前を置いて、『悪』を選ぶことは、もうできない」
「アク……?」


『悪』。
 英雄譚にも何度も出てくる悪者たち。ベルもそれくらいは知っている。
 だが、彼女が口にする『悪』とは、何か違う気がした。
 だからベルはそれは何かと質問を重ねた。


「ありとあらゆるものを壊し、秩序を混沌に塗り替え、『正義』を問う存在。そして、多くの者を殺す」
「……ころす?」
「ああ。『次代の英雄』のために踏み台となる。多くの者から大切なものを奪い、恨まれ、憎しみを買い、そして超克の先へと駆り立て、未来を託す。世界を救うために」


 まだ幼いベルには、アルフィアの話はよくわからなかった。
 だから自分に置き換えて考えてみた。

『悪』がいて、ベルからアルフィア達を奪う。
 アルフィア達は死んでしまう。
 アルフィア達とはもう会えなくなる。

 許せない。
 そんなものは許せない。
 たとえそれが世界を救うためであったとしても、ベル・クラネルは決してその『悪』を許さない。どんなに高尚で、悲壮な決意があったとしても、ベルは――奪われた者達はその罪人達を絶対に認めない。

 だから、アルフィア達がそんな役目を負わないで、良かったのだ。
 誰にも恨まれず、憎まれない道を選んでくれて、ベルは安心した。
 それなのに――。


「だが……『悪』を選ばなかった私達のせいで、世界は滅ぶかもしれない」


 その横顔は、後悔していた。
 誰からも憎悪を向けられず、罪人の烙印を押されないにもかかわらず、穢れていない自分を恥じるように。
 アルフィアは、嘆いていた。


「『最後の英雄』は……生まれないかもしれない」


 ベルがこれまで耳にしたことのないほどの慚愧の声、目にしたことのないほどの儚い表情。
 アルフィアが何故そうまで悲しんでいるのか、ベルにはわからない。
 わかるわけがない。
 けれど、彼女が悲しみに囚われてほしくないのは、確かだった。
 だから。
 だから。
 ベルは、それを口にしていた。



「それなら、僕が『英雄』になる」



 アルフィアの足が、止まった。



「僕が、さいごの『英雄』になる」



 ベルも足を止め、その横顔に訴えた。


「だから…………お母さんっ」


 迫る彼女達との別離を悲しみ、涙を堪えながら、深紅の瞳で、世界に一人しかいない母を見つめる。
 彼女の腕からだらりと力が抜け、ベルの手の中から細い指が滑り落ちた。
 黄金の麦を揺らす風が、静かな音を鳴らす。
 決して出まかせではない、少年が自らに課した『約束』を、黄昏の空が聞いていた。

 ベル・クラネルはいつか、この日の選択を呪うかもしれない。
 背負ったモノの大きさに気付いて、けれどもう引き返せない場所にいて、絶望する日がやって来るかもしれない。

 それでも、今は――。
 いや、たとえ、そうなったとしても――。



「……生意気な子供め」



 ――この時、彼女の顔に宿った微笑みを瞳に焼きつけ、誇ろう。

『英雄』のように、大切な人に笑顔をもたらしたことを。
『希望』を指差し、『未来』を示したことを。
『理想』を目指して歩み出すと決めた、今日という始まりを。

 憧憬を経ず、願望も抱かず、ただ誓いを胸に、
 少年はたった今から『英雄』となった。


「私の前で英雄などとほざいたからには、覚悟しておけ。今更撤回など許されん」
「うんっ!」
「では、今夜からザルドと一緒にとことん鍛えてやる」
「こんや!?」
「まずはモンスターの巣に放り込んで凌辱させるか、それとも川底の岩に体をくくりつけて死の感覚を教え込むのが先か……私はこれといった修行をしたことがないから勝手がわからんな」
「それは しゅぎょう ではないとおもいます!!」
「馬鹿め。生と死の境界を見極めなくては限界など知れんだろう。お前が英雄なんてものになるためには限界をあと三百は超えなくてはならん」
「げんかい の 意味とは!!!」


 滔々と語りだすアルフィアはどこか嬉しそうだった。
 ベルは早くも後悔し始めていた。
 汗を流して青ざめていると、不意に、伸ばされた手が白い髪を梳く。
 ややあって、


「だから、もう少しだけ、一緒にいよう」
「……うんっ」


 瞼が開かれ、美しい双眸がベルのことを見つめた。
 微笑とともに差し出される手に、ベルは自分のものを重ねる。
 再び手を繋いで、夕暮れの色に染まる帰り道を歩いていく。
 小高い丘の上で、今もこちらを眺めて待っている祖父と男のもとへ、歩いていく。

 ベルはもう泣かなかった。
 泣くわけにはいかなかった。
 かつての『英雄』に『希望』を示すために、笑みを浮かべた。

 静かで穏やかな、『未来』へと続く黄昏の道を、進んでいった。


   ◇◆◇


 夢を見ていた。
 会ったこともない、知らない女の人と、自分のようでいて自分ではないベル・クラネルが、たった二人きり、黄昏の光の中を歩んでいく夢を。
 それは平穏で、幸せで、美しく、寂しい夢だった。
 深紅の瞳が静かに涙を流していることに、今更気付く。

 ――――『英雄』になる。

 夢の中の少年は決めていた。
 沢山のものを背負って『英雄』になると決意していた。

 ――――『英雄』になりたい。

 自分のそれはまだ『願望』のまま。
 この英雄願望は、想いは、いつか決意に変わるのだろうか。
 あるいは、違う何かへと変ずるのだろうか。
 わからない。
 けれど、進もう。
 既にぼやけて碌に思い出せない、あの光景に負けないように、走り出そう。

 立ち上がり、部屋を抜け出し、館を飛び出す。
 少年は今日も、朝焼けに染まる『英雄の都』を駆けていく。


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