Spinoza Note 06: 有限とは測れるもの

定義2は「有限」finite の概念を述べている。有限の概念を定義するのは、後で「様態」mode という別の概念を定義するためである。原文で finite は次のように述べられている。

Ea res dicitur in suo genera finita, quae alia ejusdem naturae terminari potest.

英語では "A thing is said to be ‘finite in its own kind’ if it can be limited by something else of the same nature"、日本語では「同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる」と訳される。「同じ本性の」と「自己の類において」という条件はとりあえず措いておき、「他のものによって限定されるものは有限である」の部分だけ考える。

上の定義だけでは読者が意味を読み取れないと Spinoza も思ったのであろう、補足説明がついている。「たとえば物体は有限である。なぜなら常にそれより大きなものを見つけてこられるからだ」といったようなことを追記している。

「より大きなもの」という表現が自然数を思い出させる。数1に対して数2を提示できる。数2に対して数3を提示できる。一般化するとどのような数 'n' に対してそれより 1 大きい数 'n+1' を提示できる。ゆえに自然数は有限である。

有限の概念を理解するうえで数について考えるのは有用だが、ここでSpinoza が伝えたいのは「測る」ことだろう。たとえば野から一本の竹 A を切り出してきたとする。その長さを記録するため、もう一本、その竹よりも長い竹 B を切り出す。長い竹 B を A の横に並べ、AとBの下端をそろえた上でAの上端の位置をBに刻む。こうすることで A の長さが記録できる。その後、竹 C 、竹 D とその他の竹を何本も切り出してきたとしても、それらが B より短ければ同様にそれらの長さを記録できる。また竹 A, C, D の長さを比較できる。測れること、その結果として記録できること。これらが有限の概念を持ち出すことで Spinoza が示したいことだろう。

では常に計測できるか、どのようなものでも計測できるのかというと、「同じ種類のものに限ります」という。何を以て「同じ種類」というのか。先ほどの竹 B を使って用水路の水深を測ることができる。とすると、水と竹は同じ種類であるらしい。とすると、”in suo genera" 「自己の類において」とか、"alia ejusdem naturae" 「同じ本性の他のもの」と書く際、Spinozaは水とか竹といったものより抽象度の高い、「物体」corpus というところで対象をまとめていると気づく。水も竹も物体 corpus であるらしい。

では竹で測れないもの、物体とは異なる種類のものがあるか。この点について Spinoza は思惟を対置する。

Sic cogitation alia cogitatione terminature. 

この文は "And a thought can be limited by another thought" 「同様に思想は他の思想によって限定される」と訳される。英語で thought、 日本語で「思想」と訳している用語が cogitate であることに注目する。Descartes の cogito (「我思う」)である。Spinoza は人間の考えることを有限と見なしている。この点で Descartes と Spinoza の違いがみられるが、今は差異を論じない。

ここまでのところで Spinoza が物質と思惟が有限であると考えていることがわかった。「有限」を比較と計測で定義していることがわかった。説明は十分に思われるが、 Spinoza は一言加える。

At corpus non terminature cogitatione, nec cogitatio corpore.

「だが物体は思想により限定されないし、また思想は物体に限定されない」という。敢えて最後にこれを加える意図はどこにあるのか。この一文で読者は物体と思想が異なる種類であると知る。そして、思想を物体で測れないことを知る。最後の主張は現代の状況で解釈すると重要さがわかる。たとえば神経科学や認知科学の研究者が、被験者の脳波を測って精神活動を明らかにしようとするが、これは本来、不可能ということになる。精神活動は物理的手段によって測れない。保守的に聞こえるが、Spinoza が書いていることに従うとそういうことになる。(ここまでのところ)

しかし神経科学や認知科学が不可能かというとそういうことはなく、精神と身体が並行していると考えればそれらの科学も成立する。精神と身体の関係については別の章で論じられているのでここでは触れない。

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