Spinoza Note 05: Spinoza の nature は摂理である

Ethicaの第一章「神について」の第一文後半を読む。

sive id, cujus natura non potest concipi, nisi existens.

英語では" or that, whose nature cannot be conceived, unless existing" (P. Wienpahl) あるいは  "or the nature of which cannot be conceived except as existing" (G. Eliot) となる。後半の主語は cujus nature、前半の主語が cujus essentia であるから、それぞれ神の nature と essentia を並べて説明しているところだ。前項で essentia を神の有り様(Being)と解釈したが、nature を神の何と理解すべきだろうか。

日本語で nature は「本性」と訳される。本性というと、重いとか固いといった性質のことだが、Spinoza は静的な属性で神を定義しない。Spinoza の神は常に働いている。だから、この nature を「摂理」と解釈する。自然の摂理は物事のうちに見て取れる。それは活動している。

この文は否定形である。「神の摂理を把握できない、その働きによって生じた物事なしには」と表現している。"unless" は "if _ not" と同じだがこの種の否定が前に出てくる表現が日本語は不得手である。”Nobody came" を"Everybody did not come" と書き換え、「誰も来なかった」とするほかない。「Nobody が来た」とはいえないのである。

日本語の都合でこの文を "We can conceive its nature only when things are existing" のように言い換え、「物事が生じているときのみ、神の摂理が把握できる」と翻訳する。ここでの existens は前半の existentiam のことだから、Being の活動により生じた物事である。ゆえに後半は、それら生じたものごとを介してのみ神の(あるいは自然の)摂理が把握できると述べている。もとの文型に戻ると、「神の働きによって物事が生じなかったら、神の摂理を知り得ない」ということになる。

再度言い換えると、我々が神の摂理を把握できるのは神の働きにより物事が生じている時だけだ、ということになる。この箇所をほかの翻訳でみると「その本性が存在するとしか考えられないもののことである」としており、「本性が存在する」ことしか言い表していない。「本性」が主語で、「存在する」がその動詞となっているが、原文をどう読み返してもそのような解釈が成り立たない。歩み寄ったとしても「存在しなければその本性が把握できない」という読み方だが、これだと当然すぎて Spinoza がそんな単純なことをわざわざ書くはずがないから、それらの訳者が候補から除外したのだろう。

「存在がなければその本性が把握できない」「存在がなければその摂理が把握できない」と書き換えていくと少し私の読みに近づく。「神の働きによって物事が生じなければ神の摂理が把握できない」と読むべきところ、なぜ違った風に読むのか、察するに、ものが存在することと神が働くことを区別しないからか。あるいは神の働きが直接みえない(感受できない)こと、人間を神から隔てている深淵に気づかないのか。この点は後で考えることにして、第一文の解釈を結論づける。

Per causa sui intelligo id, cujus essentia involvit existentiam, sive id, cujus natura non potest concipi, nisi existens.

「神は他に原因を持たない自律的存在であり、常に生成流転して物事を生じさせる。神の働きによって物事が生じなければ、我々は神の摂理を把握できない。」と意訳する。神と被造物、人間という三者の関係を述べている。神が物事を生じさせる、人はそれを見て神の摂理を知る。神がほかのものから影響を受けることはない。Spinozaはそのように言う。異論ない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?