Spinoza Note 36: すべてが必然だ、人の欲求も含めて(第3群-2)

第3群-3「神の能力」(定理36から34)は難しそうなので、最後に回すこととし、先に第3群-2 「必然性」(定理33と定理32)を検討する。これらの定理はいずれも必然性がテーマだ。

Proposition 33: Res nullo alio modo, neque alio ordine à Deo produci potuerunt, quàm productæ sunt.

Eliot訳:Things could not have been produced by God in any other manner or in any other order than that in which they have been produced.
Elwes訳:Things could not have been brought into being by God in any manner or in any order different from that which has in fact obtained.
高桑訳:ものは現に産出されているのとは異なった仕方で、また異なった秩序によって神から産出されることが出来なかった

「異なった秩序によって」というところ、秩序というよりは「順序」ではないか。畠中も秩序と訳しているけれども。神から何かが生まれ、そこからまた別のものが生まれるという関係を幾度も経て、世界がいまあるような姿になっている。それを論理式として 'is-in( x, y ) ' と表した。因果関係に言及している箇所だから、ordine は順序だろう。

定理33が否定形で書かれていてわかりにくいが、「既に起きたこと、その因果の連鎖は必然であり、他の可能性はなかった」と理解する。

次に定理32をみてみよう。

Proposition 32: Voluntas non potest vocari causa libera, sed tantùm necessaria.

Eliot訳:The Will cannot be called a free cause; but only a necessary cause.
Elwes訳:Will cannot be called a free cause, but only a necessary cause.
高桑訳: 意志は自由原因ではなくて、必然的な原因としか呼ぶことができない

一つ前の定理33は一般論であり、物理だと思うと素直に聞けるが、定理32は人間の意思決定に言及し、それが物理と同様、因果の連鎖で決定されている、だから必然だと述べている。人を物と同じく扱うとして、この命題は一部で評判が悪い。

二つの定理を合わせると、「すべて物ごとは必然的に起きる、人の考えること、為すことも必然だ。」という表明となる。自由意志を否定している、自分自身のことを決める権利はないのかと憤る人もいて、Spinoza のこの言明は評判が悪い。どのような意図で自由な選択を否定するのか。

憤慨せず Spinoza に則してかんがえてみよう。過去にとらわれない自由な意志決定なのか、それとも逃れようのない運命に強いられた宿命なのかは、その決定の背景や経緯をどこまで意識するかに依存するのではないか。

俗な話で恐縮だが、私は「開運!なんでも鑑定団」というTV番組が好きだ。そこには、なぜあんなものを集めるのだろうと困惑させる人々が続々登場する。そして会場に来ている家族が大抵、その収集活動に困っていて、やめてほしいと願っている。家族だけでなく、会場にいる多くの人も同じ気持ちだし、番組を見ている人もそう感じている。

周りの迷惑を顧みず収集に邁進する人の気持ちを察するに、ものを集めるのは必然であり、やむを得ないこと、どうにもならないことと思っている。一方、家族はその人が「好きで」集めていると認識している。家族からみるとその人の収集癖は自由意思に発するものだが、本人にしてみればそれは逃れられない必然だ。「集める、集めない」を選ぶ話ではない。物を手に入れるのは使命なのだ。Spinoza のいう必然は収集家たちの気持ちを代弁している。

私にも家人に理解されない趣味がある。自宅にピアノが2台あり、1台はPetrofというチェコで製造されたアップライト、もう1台はPleyel というフランスの会社が1884年につくったグランドで、ゴールデンマホガニーが使われ、随所に象眼細工が施された芸術品だ。どちらも純正で、個性がある。なのに家人はアップライトを処分せよと度々言う。音の違いがわからないのだ。この物憂げに歌うピアノはRachmaninoff や Scriabin に合う。そして Pleyel は Chopin はもちろん、Bach や Schubert を完璧な調和をもって奏でてくれる。どちらも私にとって必要だ。一方を選ぶなんてことができようか。

周囲にとって迷惑なその人の趣味は、本人にとって重要であり、生きる目的でさえある。「自分だけ好きなものを買って家を狭くしている、迷惑だからやめてほしい」という家族は当人の欲求に閉口している。しかし、当人は「好きなことをしている」と言われると不本意だ、必要だから買っているのだから。というように考えると、人が生きていく上での欲求を Spinoza はみていて、そこに因果関係の連鎖があると言っているように思われる。

「研究費って、ひとつもらうともっと欲しくなるんだよね、これで十分ということがないんだ」と、ある倫理学の先生がしみじみ言っていた。その時は強欲な人だと思ったが、研究が進むことで新たに知りたいことが出てくるという流れなのだろう。

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