Spinoza Note 57:6つの公理

第2部で Spinoza が6つの公理を挙げる。いずれも極度に抽象的で、単独で理解するのは困難だ。第1部を読む際に試みたように、それぞれの定理を読む際、そこで参照されている公理を検討するという形で進める。後で読み返すときのために翻訳を並べておく(高桑訳)。

1. Hominis essentia non involvit necessariam existentiam, hoc est, ex naturæ ordine, tam fieri potest, ut hic, & ille homo existat, quàm ut non existat.
人間の本質は、必然的な存在を包含しているものではない。すなわち、自然の秩序に従えば、「これ」または「かの」人間が存在することも、また存在しないことも起こりうるのである。

人は存在することもあれば、存在しないこともある、ということだろう。人類として存在するが、特定個人が存在するか否かは偶然だ、と読む。

2. Homo cogitat.
人間は思惟する

思惟に注目することが、肉体としての存在より、考えることが重要と暗に伝えている。

3. Modi cogitandi, ut amor, cupiditas, vel quicunque nomine affectÜs animi insigniuntur, non dantur, nisi in eodem Individuo detur idea rei amatæ, desideratæ, &c. At idea dari potest, quamvis nullus alius detur cogitandi modus.
愛・欲望のような思惟の様態、その他感情の名で呼ばれているものは、同じ個体の中に、愛され、望まれなどした事物の観念がなければ存在しない。これに反して観念は、思惟の様態が他に一つも存在しない場合でも、存在することができる。

第1部で触れたが、知性があってはじめて愛や欲望が可能となる。なぜなら愛や欲望の対象を知る必要があるからだ。しかし観念はそれを知るために愛や欲望を要しない。ただ知性があればよい。そう言っているようだ。

4. Nos corpus quoddam multis modis affici sentimus.
私たちは、或る物体が、様々の仕方で刺激されるのを感知する。

affection のことを言っている。物体を肉体と読み換えると、肉体が刺激されるのを「感じる」 sentimus という動詞を用いる点が注意をひく。本部中の用法をみないと意味を理解できない。

5. Nullas res singulares præter corpora & cogitandi modos sentimus nec percipimus.
私たちの感知し知覚するのは、物体と思惟の諸様態だけであって、それ以外のいかなる個物も感知し知覚することはない。要請については、定理13の後をみよ。

物体と思惟の諸様態、つまり具体的な肉体や、実在する精神を把握できるとしている。どちらかというと人は受け身のようだ。conceive (概念化)でなく、sentimus (感じる)や percipimus (知覚する)を使っているから。実体が感知できない、知覚できないことがこの命題から導かれる。(だが、神を概念化できないと述べていない。その可能性が残っている。)

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