Spinoza Note 25: [公理7] 存在していないものは把握できない
前項で公理7を参照し、次のように論理式に翻訳した。訳者と多少解釈が違うので、「非存在 y が x を介して把握されるなら、x が y の活動から生じることはない」としている。条件文の前件が「非存在 y が x を解して把握されるなら」に相当する。
定理11を説明する際、Spinoza は公理7を参照し、神が存在しないなら、「その本質は存在を包含しない」と述べた。
多少、解釈が異なるので、この部分を「非存在の活動が物事を生じさせることはない」と読み、次のように翻訳した:
先に示した公理7の翻訳と比べると、前件の ” is-conceived-through( y, x ) " が抜けている。なぜだろうか。公理7に忠実に推論を重ねるなら、Spinoza は「非存在が把握されるなら、その活動が物事を生じさせることはない」と言うべきところだ。なぜ「… が把握される」という表現を省いたのだろうか。なぜ「非存在の活動が物事を生じさせることはない」で済ませたのだろう。
「非存在」に注目する。原文に戻ろう。冒頭の” Quicquid, ut non existens " にある ' existens' を名詞に訳しているが、これは動詞である。英語に訳すと " Whatever can be conceived as non existing " (「凡そ、非存在として把握される一切のもの」)という句の " non existing " に相当する。ここは「存在していないと把握される一切のもの」と読解しなければならない。
「存在していないと把握される一切のもの」とは何だろうか。存在していないなら、それは把握できないのではないか。「存在していないものが把握されるなら」という表現は無意味ではないか。Spinoza はそう考えたのだろう。その時代の人たちが皆、そう考えたのだろう。「存在しないもの」でいいではないか、と思った。「存在していないものが物事を生じさせることはない」として構わないと考えた。
存在していないものは把握できない、と片付けてよいだろうか。存在しないものは「無」である。日本人は無について考える。「無心」「無我」という言葉もある。「無は把握できない」という言明には疑問を感じなければならない。
こんなことを思うのは、世界の名著第25巻「スピノザ ライプニッツ」(1969)の付録に掲載されている対談(吉田光・下村寅太郎)の発言にひっかかるからだ。
「無には祈れない」「存在していないものに祈れない」とは素直な意見だ。Spinoza が" Whatever can be conceived as non existing " (「凡そ、存在していないと把握される一切のもの」)と書くとき、「あり得ない、論理矛盾」という感情があったかもしれない。
公理7自体が反語表現であった。だから、論理的には「存在していないと把握されるものが、物事を生じさせることはない」とすべきだったところを、うっかり「存在しないものが(省略)物事を生じさせることはない」と書いたと推測する。
畠中は公理7のこの語句を「存在しないと考えられうるもの」と訳している。この方が原文に忠実だ。高桑の「非存在として把握されるもの」という訳は「無」を存在の一形態と捉える日本人の心情に則している。何かが把握できるなら、それがたとい無であったとしても存在を認めるのは特異な態度だ。Spinoza の論の進め方と高桑の訳を見比べて、そのあたりの違いに言及したくなった。
無を念ずることはできるが、無に祈ることは出来ない。Spinoza は神を念じているのか、神に祈っているのか。禅仏教の影響を受けて、我々はなんとなく Spinoza が神を念じているように想像するが、本稿の考察を踏まえるなら Spinoza は神に祈っている。上で触れた下村寅太郎が Spinoza の考えを「解脱の哲学」と評しているが同意できない。Spinoza は世界のうちに留まる。
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