Spinoza Note 18: 属性と実体で認識方法が異なるのはなぜか

定理5でもうひとつ気になるのは、属性が観察できるのに、実体は見えず、直観するほかないのはなぜかという点である。さらにわかりにくいのが、属性は実体であることだ。大本に実体 substance がある、そこに属性 attribute が生じる。しかしそこまで実体だ。それから様態 mode が生じ、これはすでに実体でない。無限なものが有限化している。なぜこのようなややこしい構造になっているのか。

Ibn Arabi ( 1165 - 1240) の存在一性論の解説を読んで、少し理解が進んだ。彼の説を検討する前に、新プラトン主義を説明しておく。それによると、世界は「一者」から流出して出来上がっている。その一者は言葉で表現できず、知ることも把握することもできない。Ibn Arabi はそれを ghayb(ガイブ)と呼ぶ。(以降の説明は鎌田繁「イスラームの深層」 p. 230- からの要約である。)

要約:この絶対的存在(一者)が現実の世界の根源にある。それが種々の濃淡で凝り固まることで、すべてのもの(存在者)の姿になる。その流出の過程を自己顕現と呼ぶ。人間、机、紙、鉛筆もすべて絶対者の自己顕現の一形態である。(p.231-232)

ここでいう「一者」を Spinoza のいう実体に相当するものと解釈する。この後、興味深い論が展開される:

こうした自己顕現には段階論が付随する。最上位に絶対的一性、中位に相対的一性、下位に多性を置く。アラビア語は次のようになる:
ahadiya  -   絶対的一性  -  ガイブ
wahidiya  -  相対的一性 -(属性を伴う)神
kathra  -  多性  -  個々の人間、事物

これらのもととなった ahad と wahid は両者とも「一」を意味するが、ニュアンスの違いがあり、前者は「全」に近い。全体がひとつであって外部がない。対して wahid はその後に「二、三、四、… 」と続くことを前提にした「一」である。

絶対的同一性と多性の間に「相対的一性」がある。「一である絶対者が多として現象していく過程に、段階を想定するのである」(鎌田 p. 233)

より素朴に、一なる絶対者が多を創出するのであれば、二段階だけで説明できるという考えもありうるかもしれない。しかし、純然たる「一」の世界から突如「多」なる世界が生まれると考えるよりも、「一」ではあるが、そこから出てくる多性の世界に対応するような、「多性を内に秘めた一」の段階というものが想定されて、そこから多なる世界が現れると考える方が、神の絶対性、またガイブの把握不可能性がよく表されるのである。(p. 233-234)

おお、これか!と合点がいった。Spinoza はこんなことを全く言っていないが、こういう風に解説してくれると理解が進む。「絶対的一性」が個々の人間やその他の生き物に姿を変えていく途中で、まだ神でありながら属性を胚胎する段階があるのだ。そりゃあ、いきなり人や牛、馬を生むのは大変だ、神様といえども。準備がいるさ、、受精卵の分裂みたいな段階があったっておかしくないだろう。

そう考えると、「絶対的一性」(現れていない、見えない、触れない、把握できない)は把握できないけど、「相対的一性」は見えてもいいのでは?という気になってくる。少なくとも数えられはするみたいだ。

ahad と wahid のニュアンスの違いが Spinoza にあるかというとなさそうではある。Spinoza はどちらも無限と言うから。「 wahid はその後に『二、三、四、… 』と続くことを前提に」しているというのを読むと、数えられる ( finite ) のだから、様態 mode に近い。しかし属性集合が無限だと Spinoza が強調しなければならなかったことから推測するに、この時代の読者が属性を有限と理解しがちだったのだろう。

実数の集合は無限だから、それで wahid を表し、その上の絶対無限を ahad に対応づけるという解釈は可能だろう、Cantor の仕事を知っている現代人なら。しかしそこまで厳密な区別を中世の人たちが出来ていたとは思わない。でも、気分の違いは感じ取れただろう。だから異なる言葉を当てている。

属性の違いが見えることはある程度納得したが、実体がどうにも見えない、現れてさえいないとすると、Spinoza がなぜそんなものを観照せよといったのか理解に苦しむ。同じく Ibn Arabi の説にヒントを探す:

神は不断に与え、顕現の場はその受容能力の実相に応じて受け取る。ちょうどあなたがいうように。すなわち、太陽はその光を存在者のうえに拡散し、その光をどのようなものにも惜しむことはない。顕現の場はその光をそれらの受容能力に応じて受け取る。(p.234) 

受容能力が高ければ多くの光を受け止められる。「どんな人間もそれにふさわしい信仰を持つのである」(p.245)
そう言われると、自分のような者にも、愚かさに相応しい知恵を授けてくださるということだ。「生の始めに暗く」(空海)と嘆く必要もなさそうだ。分相応にわかればそれでいい、と安心しよう。もちろん Spinoza はそんなこと言っていない。

中世、ヨーロッパはイスラム世界を通じてギリシア哲学を知ったとされるが、Spinoza がどの程度、イスラム哲学に影響を受けたか不明だ。祖父が12世紀までイスラム支配下にあった地域に住んでいたから、イスラム神秘哲学の巻物を先祖から受け継ぎ、移住のときにアムステルダムまで運んだ、ことはないだろう。Spinoza の思想に歴史的影響はなく、ひとつの考え方を追求した結果、似たようなところにたどり着いたとするのが無難だ。

文献を探していて、ハイデガーがライプニッツの根拠律を論じたことを検討しているものを読んだ(井口正俊, 形而上学と隠喩 (2006), 西南学院大学)

ライプニッツの「根拠律」〈Nihil est sine ratione, Nichts ist ohne Grund〉「何ものも根拠(理由)なしには存在しない」あるいは「何ものも根拠(理由)なしに生起しない」という命題は「そもそもなぜ存在があって,むしろ無ではないのか?」〈Warum ist überhaupt das Seiendes, nicht vielmehr Nichts?〉という存在論的問いとかかわっており,(以下、省略)

「根拠(理由)なしには存在しない」を「自己原因で存在する」で返し、「始めにあったのは無ではないのか?」に対して「いまだ姿を現さぬ無限である」と答えれば、Ibn Arabi や Spinoza の考えになる。そういう系譜の形而上学を学んでいる。

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