Spinoza Note 29: [定理14] 神をのぞいて他には、いかなる実体も存在しえないし、祈ることもできない

定理14を検討する。神が不二であると Spinoza が主張するが、それだけでなく、神だけが祈りの対象になり得ると主張しているように読める。そちらに注目する人は少ないが。

Præter Deum nulla dari, neque concipi potest substantia.

Eliot訳:No substance besides God can exist or can be conceived.
Elwes訳:Besides God no substance can be granted or conceived.
畠中訳:神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられない
高桑訳:神をのぞいて他には、いかなる実体も存在しえないし、また、考えられもしない。
佐藤一郎訳:神を除いて、いかなる実体も与えられることができず、また念われることもできない。

短い命題なので意味はとりやすい。Jarrett の翻訳をみてみよう。「神をのぞいて他には、いかなる実体も存在しえない」という箇所に相当する。

∃x. [ is-god( x ) ∧ ∀y. [ is-substance( y ) ⇒ ( y = x ) ] ] 

意味:ある神 x が存在する、そのとき、あらゆる実体 y は x と等しい。

証明の流れは次の通り:神は一人だけだと証明したい。そのために、神が二人いたら論理が破綻することを示す。つまり背理法を用いる。神が二人いたとする。かれらはいずれも神の属性を備えており、それらの属性は等しい。しかし、これは定理5と矛盾する。定理5「自然のうちには、同じ本性もしくは同じ属性を持つ二つ、または、多くの実体というものはありえない。」

試しに上の式の否定形(帰無仮説)を作る:

¬ ∃x. [ is-god( x ) ∧ ∀y. [ is-substance( y ) ⇒ ( y = x ) ] ] 
∀x. ¬ [ is-god( x ) ∧ ∀y. [ is-substance( y ) ⇒ ( y = x ) ] ] 
∀x. ¬ [ is-god( x ) ∧ ∀y. [ ¬ is-substance( y )  V ( y = x ) ] ]
∀x.  [¬ is-god( x ) V ¬∀y. [ ¬ is-substance( y )  V ( y = x ) ] ]
∀x.  [¬ is-god( x ) V ∃y.¬ [ ¬ is-substance( y )  V ( y = x ) ] ]
∀x.  [¬ is-god( x ) V ∃y. [  is-substance( y ) ∧ ¬ ( y = x ) ] ]
∀x.  [¬ is-god( x ) V ∃y. [  is-substance( y ) ∧  ( y ≠ x ) ] ]

何度か変形を経て、一番下の形に落ち着く。これを仮定したら論理が破綻すること(矛盾が導かれること)を示せば良い。帰無仮説は前半と後半に分かれ、 前半の " ∀x.  [¬ is-god( x ) ] " は「あらゆる x が神ではない」を意味する。これは 定理11 「神が存在する」" ∃x. is-god( x ) "と矛盾する。(Spinoza Note 24を参照のこと)

念のため、矛盾が導かれるまで変形する。∀x.  [¬ is-god( x ) ]をPとおくと、二行目で P ∧ ¬P の形になっており、矛盾とわかる。

∀x.  [¬ is-god( x ) ]  ∧ ∃x. [ is-god( x ) ]  を
∀x.  [¬ is-god( x ) ]  ∧ ¬∀x. [¬ is-god( x ) ]  に変形する

後半の " ∀x. ∃y. [  is-substance( y ) ∧  ( y ≠ x ) ] ” は「すべての x に関して、x と異なる実体 y がある」の意味である。これを矛盾に導くには新たな公理9が必要だ。もの x に対して(無条件で)属性集合を認める。

∀x. Att_x

これを用いて後半の式に x と y の属性集合を導入する。さらに、それらの属性集合が等しいことも付け加える。(そういう前提だから)

∀x. ∃y. [  is-substance( y ) ∧  ( y ≠ x ) ] に公理9を適用し
∀x. ∃y. [ Att_x ∧ Att_y ∧ is-substance( y ) ∧  ( y ≠ x ) ] に変形し
∀x. ∃y. [ Att_x ∧ Att_y ∧ Att_x = Att_y ∧ is-substance( y ) ∧  ( y ≠ x ) ]

前項で導入した定理5a " ∀x. ∀y. [ ( Att_x = Att_y ) ⇒ ( x = y ) ] " を適用すると、次にようになる。" x = y " と " x ≠ y " が矛盾する。ゆえに証明が成り立たないことを示せた。

∀x. ∃y. [ Att_x ∧ Att_y ∧ ( x = y ) ∧ is-substance( y ) ∧  ( y ≠ x ) ]

帰無仮説の前半と後半がいずれも矛盾に導かれることを示した。
 ¬ ∃x. [ is-god( x ) ∧ ∀y. [ is-substance( y ) ⇒ ( y = x ) ] ]  
が棄却されたので、その否定、すなわち定理14が真であることが証明された。「神をのぞいて他には、いかなる実体も存在しえない」は真である。

さて、「(神以外の実体は)考えられもしない」の部分はどのように証明するのだろうか。いちおう背理法の形をとる。

  • 神以外の実体 y が考えられるとする(帰無仮説)

  • それが真なら、y が(必然的に)存在する(命題P)のだが、

  • 命題Pが偽であると(既に)上で証明したので

  • 矛盾に至る

  • つまり、帰無仮説が棄却された

  • 以上より「神以外の実体 y は考えられもしない」は真だ

二段目の「それが真なら、y が(必然的に)存在する」のところで違和感をもつが、Spinoza の並行説がなせる技だ。Spinoza は「真理が現実に合致する」という(Spinoza Note 17を参照のこと)。しかし現実に y が存在しないと証明したので、「真理」が現実と不一致となった。真理と思ったことが間違っていたのである。それが「考えられもしない」の意味である。

原文で " Ergo extra Deum nulla dari, neque concipi potest substantia. Q.E.D. " と書いている。' concipi ' という動詞が使われているが、これが英語の conceive に相当する。Spinoza はこの動詞を、心の中に対象の像を作るという意味で用いるので、「現実にないことを思い描けない」と言いたかったのだろう。「神をのぞいて他には、いかなる実体も存在しえないし、祈ることもできない」とでも訳せばよかった。「考え」と言われると、何かいろいろ思いを巡らせるのかと誤解する。


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