Spinoza Note 30: [定理15] 存在するものはすべて神に起因する

定理15は存在する物すべてが神から発すると述べている。「すべてが神の内にある」という言明に態度を留保したい(最後に述べる)。

Quicquid est, in Deo est, & nihil sine Deo esse, neque concipi potest.

Eliot訳:Whatever is, is in God, and nothing can exist or be conceived without
God.
Elwes訳:Whatsoever is, is in God, and without God nothing can be, or be conceived.
畠中訳:すべてある物は神のうちにある、そして神なしには何物もあり得ずまた考えられない
高桑訳:存在する物はすべて神のうちにある。そしていかなるものも神なしには存在してないし、また考えられることもできない。

Spinoza の宇宙で「存在するもの」は実体か様態のどちらかである。まず実体について、次に様態について、定理15を証明する。

前半の「すべてある物は神のうちにある」から着手する。Jarrettの解釈を参考に、「自分自身の原因であり、それ自身において conceive されるものは神である。」と定理15を翻訳する。その際、Jarrett に倣い、固有名詞に相当する god を導入する。(記法が簡便になり、読みやすくなるので。)

∀x. [ is-in( x, x ) ∧ is-conceived-through( x, x )  ⇒ ( x = god )] 

まず、定理14「神をのぞいて他には、いかなる実体も存在しえない」を参照する。

∀y. [ is-substance( y ) ⇒ ( y = god ) ] ]

次に定義3「実体とはそれ自身において存在し、それ自身によって考えられる物のことである。」を参照する。Jarrett はこれを次のように翻訳する:

∀x. [ is-substance( x ) ⇔ is-in( x, x ) ∧ is-conceived-through( x, x ) ] 

定義3を使って定理14を展開すると定理15が得られる。(前半の証明終わり)

∀y. [ is-in( y, y ) ∧ is-conceived-through( y, y ) ⇒ ( y = god ) ] 

次に後半の「神なしには何物もあり得ずまた考えられない」という文だが、「神なしには何物もあり得ない」は、前半の「すべてある物は神のうちにある」と同じことを言っている。その部分はすでに証明を終えているので新たな証明を要しない。つづく「また考えられない」という箇所は、証明した定理15の is-conceived-through( y, y ) という式で表現されている。ゆえに追加の証明を要しない。

定理15が実体に関して成り立つことが示された。

次に存在する物が様態である場合を検討する。定義5「様態とは実体の変状、すなわち他のもののうちに在り、かつ他のものによって考えられるもの、と解する。」(畠中訳)(Spinoza Note 08: modeは測れるもの、を参照のこと)様態は実体のうちに在るので、「様態はすべて神のうちにある」は真である。また実体がなければ様態も存在しない。

定理15が様態に関して成り立つことが示された。定理15が実体と様態に関して成り立つことが示されたので、定理15は「すべてのあるもの」について真である。こうして証明が完了する。

存在するものはすべて神の「うち」にある、と解釈すると神に「そと」(外)があるように感じられるが、間違いだ。「うち」(内)というと何やら我々も含む生物や自然すべてが神に包み込まれている感じがするが、我々自身が神の働きそのものであり、包み込まれていない。is-in( x, y ) は x が y に依拠することを意味する。空間的な包含関係ではない。

また神は無限であり唯一なので、神の外側はない。「存在する物はすべて神から発している」あるいは「起因する」と理解すべきところだ。


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