Spinoza Note 12: [定理1] 変状は実体から現れる

とりあえず第1部の定義群を通過した。順序としては次に公理を検討することになるが、その前に Spinoza がエウクレイデス Euclid の方法に倣ったということをどの程度、勘案していくかを考える。まず Spinoza が 定義や公理、定理といったものをどのように捉えていたのかを整理する。

  • 定義 Definition:用語の意味

  • 公理 Axiom:基本的で、自明の真理

  • 定理 Proposition: Spinoza が主張したいこと

  • 系 Corollaries:定理から直接的に導き出せること

  • 補題 Lemma:物体に関する定理

  • 仮定 Postulates:常識から導き出せる人間についての仮説

  • 補助定理 Scholia:定理に関する補足説明

Euclid の方法は Spinoza の時代から300年かけて整理、発展していくわけだが、その間に研究者の興味も変わったので、ここ100年くらいの現代的理論で Spinoza の考えたことが表現できるわけではない。人々が Spinoza に関心を持つのは過去300年を振り返って、別の道もあったのではないかと夢想するからであって、仮に Spinoza まで戻るなら、この300年の成果に頼らない覚悟がいる。

そうはいってもここ100年くらいの研究成果を捨て去る勇気はなく、何か使えるものがないかとあがいてみる。公理より先に定理をみた方がいいかもしれない。定理は Spinoza が主張したいこと、公理はその主張が妥当であることを保証する自明の理である。自明の理と言われても300年後の我々には自明ではないので、そこから始められない。Spinoza の主張を支持するにはどのような公理が必要なのかを考える、というように逆方向に進まないと路頭に迷う。

そこで最初の公理をみてみる。

Ax 1. Substantia prior est naturâ suis affectionibus.

Eliot訳: Substance is prior in nature to its affections.
Elwes訳:Substance is by nature prior to its modifications.
畠中訳:実体は本性上その変状に先立つ
高桑訳:実体はその本性からして実体の諸変容に先立つものである

訳はいずれも同じように読める。’affectionbus' は以前、素通りしたのでここで考える。Spinoza によればこの定理は定義3と5より証明されるという。定義3は実体 substance を、定義5は様態 mode を定義している。復習しておこう。

定義3:英訳だと"By substance I understand: what is in itself and is conceived through itself" 、
日本語だと「実体とはそれ自身において存在し、それ自身によって考えられる物のことである。」

定義5:Eliotの訳:By mode I understand the affections of substance, or that which exists in something else, through which it is conceived.
日本語だと「様態によって私は実体の諸変容、もしくは他者のうちに在り、それを通じても実体が把握されるもの、を理解する。」

さて、、、定義5は mode を定義していると思ったが、affection の定義であったらしい。Spinoza にとっては同じなのだろう。affection は 実体 substance が一部変化したもの、という定義だろう。定義の後半は関係なさそうだから措いておく。

affection は実体を必要とするが、実体はそれ自身で存在するので、「実体が affection に先立つ」とするのは妥当に思われる。「本性上」 in nature という副詞が気になるが、実体がなければその変状なんて観察できないよね、と言われたら納得するしかない。あるいは、実体に変状が現れるのは自然の摂理だと言っているのだろうか。

Jarrett は定理1を次のように翻訳する:

∀x.∀y.[ is-mode-of( x, y ) ∧ is-substance( y ) ⇒
              is-in( x, y ) ∧ is-in(  y, y ) ]

x が y の mode であり、また y が substance なら、x は y のうちに在り、かつ y は y 自身のうちにある、という書き方だ。逆に読むと、 y がそれ自身のうちに在り、x が y のうちに在るためには、y がsubstance、そして x が mode でなければならない、となる。(量化子∀の働きは素通りする)

えーと、、 affection という用語が出てこなくて mode に置き換わっているけど、まぁいいか。。(Spinoza も同一視しているし。)しかし、これだと substance が mode に先立つという説明がないような、、 自然の摂理という話もないよね、、

疑問はあれど、先に Jarret による定義3と定義5の論理表現をみておこう。

D3. ∀x.[ is-substance( x ) ⇔ is-in( x, x ) ∧ is-conceived-through( x, x ) ]
D5. ∀x.∀y.[ is-mode-of( x, y ) ⇔
                     x ≠ y ∧ is-in( x, y ) ∧ is-conceived-through( x, y ) ]

substance はそれ自身において conceive されるが (D3) 、mode は何か別物を必要として、その別物を通して conceive される (D5) と書いてある。これらの定義を使って、定理1を書き換えてみる:

∀x.∀y.[ x ≠ y ∧ is-in( x, y ) ∧ is-conceived-through( x, y ) ∧
              is-in( y, y ) ∧ is-conceived-through( y, y ) ⇒ 
              is-in( x, y ) ∧ is-in(  y, y ) ]

証明になっている。妥当な証明となるように Jarrett が定理1の論理表現を書いたのだろう。「y が x に本性上先立つ」ということを「y はそれ自身のうちに在り、x は y のうちに在る」と解釈している。「x が y のうちに在る」という表現を Spinoza は「x は y に依存する」という意味で用いたので、それを「y は x に先立つ」と読み替えても許されるだろう。

Spinoza の時代、因果関係を y の中に含まれているものが unfolding の結果、x として外に出てくること、と捉えていたらしい。つまり is-in( x, y ) は字義通りにとると「 x が y のうちに在る」ことだが、y が x の原因である、あるいは x が y によって引き起こされる、という理解であったらしい。植物に例えると、種から芽が出てくるイメージだろう。種が原因に、芽が結果に相当する。

そうすると「先行」prior というのは時間的にも先に起きることであって、因果関係の原因の方を指す、とも考えられる。「本性上」nature というのも本当に「自然」を指すのかもしれない。種から芽が出てくるのは自然の摂理である。Spinoza はそう言いたいようだ。

参考文献:
Jarrett, Charles. “The Logical Structure of Spinoza’s ‘Ethics’, Part I.” Synthese 37, no. 1 (1978): 15–65. http://www.jstor.org/stable/20115250.
Beth Lord, Spinoza's Ethics, An Edinburgh Philosophical Guide (2010)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?