Spinoza Note 55: 実在性と完全性 realitatem & perfectionem

定義6は実在性と完全性を説明する。ひどくわかりづらい説明だ。

Per realitatem, & perfectionem idem intelligo.

高桑訳:実在性と完全性とは同じものだと私は理解する
佐藤訳:物としての性格【実在性】と完全さということでわたくしが解るのは同じものである

まったく理解できない。工藤&斉藤の解説を読む:

ここで完全性というのは、理性の存在、あるいは想像力の存在ではない。つまりこれは、「人間が迷信と無知から完全性と呼び慣れている」ところの完全性ではない。むしろものの本質と同一視されるような完全性である(書簡19を参照)

工藤&斉藤 p.127

佐藤の訳「性格」' reality ' と工藤&斉藤の解釈「本質」' perfection ' を併せると、なんとなく重なる。これらの用語も Spinoza の用法をみないとなんとも言えないが、「その人にとっての完全性」と具体化すると少し考えが前に進む。

工藤らの解説を読むと、完全性がテーマのようだ。慣習的に使っている完全性という言葉の意味と異なることを「完全」と呼びたいようだ。つまり、完全性を再定義するわけだ。どうするかというと、「物の本質」だという。工藤らは本質というが、Spinoza が realitatem と書くし、佐藤は性格と訳している。本質と現実と性格(特徴)からどう完全性を読み解くか。

Spinoza の心の内に分け入ってみる。世界は生成流転している。半ば混沌とした状況で、完全であるとはどういうことだろうか。完全であるなんて不可能だ。通常、「完全」とは、何か基準や満たすべき項目の並びがあって、それに合致することをいう。それは夢想であって、現実世界で採点基準なんか作れない、機能しないと Spinoza は思っている。(私の想像)

そういう状況で「完全」とはどういうことか。全員に一律適用できる基準などない。そうではなく、ひとり一人が自分の能力(個性)を十全に発揮していることが「完全」な状態ではなかろうか。(そうに違いない。)ひとり一人の働きをみることは、本質(神の働き)をみることと同じだ。理想ではなく現実をみている。その人の個性をみている。

少し理解できた。完全とは共通テストで満点をとることではない。個人が持っている能力を最大限、活かしている状態をいう。想像を膨らませて読んでいるから、正しいかどうか後で判断する。自分の考えを書いている。


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