Spinoza Note 13: [定理2] 人は理解しあえない

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Duæ substantiæ, diversa attributa habentes, nihil inter se commune habent.
DEMONSTRATIO: Patet etiam ex Defin. 3. Unaquæque enim in se debet esse, & per se debet concipi, sive conceptus unius conceptum alterius non involvit.

Eliot: Two substances having different attributes have nothing in common with with each other. Dem. This is also evident from def. 3. For each substance must exist in itself and be conceived through itself; i.e. the conception of the one does not involve the conception of the other.
畠中:異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。
証明:これもまた定義3から明白である。なぜなら、おのおのの実体はそれ自身のうちに存在しなければならず、かつそれ自身によって考えられなければならぬから、すなわち、一の実体の概念は他の実体の概念を含まないから、である。
高桑:異なる属性を持つ二つの実体は、互いに共通点を有しない。
証明:これもまた、定義3から明らかである。というのは、実体はそれぞれ、自らのうちにあり、かつ、自らを通じて考えられなければならぬものだからである。別言すれば、一方の実体の概念は、他の実体の概念を包含していないからである。

実体は属性で区別されると言っているはずだが、大変わかりにくい。Jarrett の翻訳をみてみる:

∀x.∀y.[ is-substance( x ) ∧ is-substance( y )∧ x ≠ y ⇒
            ¬ ∃z.[ is_common_to( z, x, y ) ] ]

意味:「 x と y がともに substance であるなら、両者に共通する(属性) z は(一つも)ない。」割とわかりやすい。attribute が出てこないが、z がattribute であると決めておくのだろう。「異なる属性を持つ実体」という規定も消えているが、、いいのかな。is-common-to でその意味を吸収したと想定するのだろう。しかし、これが定義3から導き出せるか。

D3. ∀x.[ is-substance( x ) ⇔ is-in( x, x ) ∧ is-conceived-through( x, x ) ]

いや、むりだ。とりあえず定義3にしたがって書き換えておく。('⇒’の左側)

∀x.∀y.[ is-in( x, x ) ∧ is-conceived-through( x, x ) ∧
            is-in( y, y ) ∧ is-conceived-through( y, y )
∧ x ≠ y
           
¬ ∃z.[ is_common_to( z, x, y ) ] ]

Jarrett によると公理2と5が必要らしい。ということでそれらの公理をみてみよう。まず公理2から:

Ax2. Id, quod per aliud non potest concipi, per se concipi debet.

Eliot: That which cannot be conceived through, or by means of, something else, must be conceived through, or by means of, itself.
高桑訳:他のものによって把握されぬものは、それ自身によって把握されねばならぬ。
以下は Jarrettの解釈:

∀x. [ ¬∃y. ( y ≠ x ∧ is-conceived-through( x, y ) ) ⇔
                   is-conceived-through( x, x ) ]

直裁的な翻訳だ。x が y を介して conceive されるような y がなければ x は x 自身によって conceive されるほかない。逆も真。しかしこれを使っても事態は改善しないような。。使わずに横においておく。

次に公理5をみてみる:

Quæ nihil commune cum se invicem habent, etiam per se invicem intelligi non possunt, sive conceptus unius alterius conceptum non involvit.

Eliot 訳: Things which have nothing in common cannot be understood by means of each other, i.e. the conception of the one does not involve the conception of the other.
高桑訳:互いに自己との共通性を持たないものは、自己を通じて互いに認識されることもない。或いは、一方の概念は他方の概念を包含してない、といってよい。
Jarrett の翻訳:

∀x.∀y.[ ¬∃z. is-common-to( z, x, y ) ⇔
           ¬ is-conceived-through( x, y ) ∧ ¬ is-conceived-through( y, x ) ]

これも素直な翻訳だ。x と y に共通するもの z がなければ、x が y を介して conceive されることがなく、またy が x を介して conceive されることもない。逆も真なり。(「或いは、一方の概念は他方の概念を包含してない」部分は素通りする。is-conceived-through に含まれるとする。)

is-common-to が出てきたから書き換えを再開する('⇒' の右側):

∀x.∀y.[ is-in( x, x ) ∧ is-conceived-through( x, x ) ∧
             is-in( y, y ) ∧ is-conceived-through( y, y ) ∧ x ≠ y ⇒
           ¬ is-conceived-through( x, y ) ∧ ¬ is-conceived-through( y, x ) ]

あと一歩だ。公理2を書き換えよう。先に∃y を ∀y にして式を変形する。

∀x. [ ∀y. ( y = x  v  ¬ is-conceived-through( x, y ) ) ⇔
                    is-conceived-through( x, x ) ]

x が x を介して conceive されるなら、全ての y について y が x と同一であるか、あるいは x が y を介して conceive されることがないか、いずれかである。逆も真なり。

この公理2(変形版)を使って証明をもう一度書き換える('⇒’の左側):

∀x.∀y.[ is-in( x, x ) ∧ ( y = x  v  ¬ is-conceived-through( x, y ) ) ∧
         
is-in( y, y ) ∧ ( y = x  v  ¬ is-conceived-through( y, x ) ) ∧ x ≠ y ⇒
           ¬ is-conceived-through( x, y ) ∧ ¬ is-conceived-through( y, x ) ]

x ≠ y が真であるとき x = y は偽なので、あっても意味がないから取り除く。

∀x.∀y.[ is-in( x, x ) ∧ ¬ is-conceived-through( x, y )
            is-in( y, y ) ∧ ¬ is-conceived-through( y, x )  ∧ x ≠ y ⇒  
         ¬ is-conceived-through( x, y ) ∧ ¬ is-conceived-through( y, x ) ]

証明できた。x と y がともに自己原因(すなわち実体)であり、相互に他方を介して conceive されることがないならば、x は y を介して conceive されないし、y も x を介して conceive されない。

これが定理2「異なる属性を持つ二つの実体は、互いに共通点を有しない。」と等価である。しかし、読み方によっては結構厳しいことを言っているように思われる。

例えば公理2「他のものによって把握されぬものは、それ自身によって把握されねばならぬ」で、「他のもの」を「他の者」、それ自身を「自分自身」と読み替えたらどうだろうか。「他人が理解してくれないなら、自分一人で理解せねばならぬ」と言い聞かせているようだ。

それから公理5「互いに自己との共通性を持たないものは、自己を通じて互いに認識されることもない」は、「共通点がなければ互いに理解し合えない」と読める。

その上で定理2「異なる属性を持つ二つの実体は、互いに共通点を有しない」は、実体を「人」に置き換えると、人々に共通点はないと読める。Descartes は個人の精神を実体とみたから、Descartes信奉者には Spinoza のこの言明が相当、否定的に聞こえただろう。公理2と公理5が当時の人たちに自明なことであったとは考えにくい。むしろとても現代的に聞こえる。Spinoza は誰も自分のことを理解してくれない孤独を感じていたかもしれない。

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