Spinoza Note 15: [定理4] 神は自らを差異化していく

ここは難所だ。考えをまとめるのに一日かかった。

Duæ, aut plures res distinctæ, vel inter se distinguuntur ex diversitate attributorum, substantiarum, vel ex diversitate earundem affectionum.

Eliotの訳:Two or more distinct things are distinguished from each other either by the difference of the attributes of substances, or by the difference of their affections.
Elwesの訳:Two or more distinct things are distinguished one from the other, either by the difference of the attributes of the substances, or by the difference of their modifications.
Wienpahlの訳: Two, or plural distinct things are distinguished between one another, either according to diversity of attributes of the substance, or according to diversity of their affections. 
畠中訳:異なる二つ、あるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によって互いに区別される。
高桑訳:相異なる二つ、もしくは多くのものは、実体の属性の差異によってか、でなければ、実体の諸状態の差異によってか、いずれかによって相互に区別される。

"Duæ, aut plures res distinctæ, vel inter se distinguuntur" という冒頭の表現、いずれの訳者も、複数のものが区別「される」と解釈している。そう読むと区別する者が想定され、その分別ある者が対象を「どのように」識別するのかを考えることとなる。そうすると迷路に入り込む。(結論を先に言うと、受動態ではなく能動態と解釈する。詳細は最後の方に書いた。)

この命題を解釈するJarrett の考えを追ってみよう。「もの」とは何だろうか。Spinoza の世界では substance と mode である。では「もの」を分けるとはどういうことか。二つのものAとBを分けるとしよう。AとBを識別するにあたって4通りが考えられる:

  1. A と B がともに substance である

  2. A が substance で B が mode である

  3. B が substance で A が mode である

  4. A と B がともに modeである

条件が4つあるので、Jarrettは次のように4つの条件を並べて OR で結合する:

∀x.∀y.[ x ≠ y ⇒ ∃z.∃w[ 
                    is-attribute-of( z, x ) ∧ is-attribute-of( w, y ) ∧ z ≠ w   V  -- (1)
                    is-attribute-of( z, x ) ∧ z = x ∧ is-mode( y )  V                  -- (2)
                    is-attribute-of( w, y ) ∧ w = y ∧ is-mode( x )   V               -- (3)
                    is-mode( x ) ∧ is-mode( y )                                                -- (4)

Case (1) では x と y がともに substance であり、x の属性が z, y の属性が w として、それらが異なると述べている。
Case (2) は x が substance、y が mode である場合を記述している。式 "z = x" が気になるが、x の属性 z は「もの」としては実体なのでこのように書く。記号 '=' で結ぶには無理があるが、今は論じない。
Case (3) は Case (2) の対称であり、x と y の役割(substance か modeか)を入れ替えただけだ。
Case (4) は x と y がともに mode である場合を記述している。

さてこれを証明するわけだが、Spinoza が書いた定義、公理だけでは証明できない。Spinoza は公理1、定義3と5,定義4により証明できるとしているが、それらの公理と定義を参照しても上の式は証明できない。

そこで Jarrett は公理を一つ加え、さらに3つの定理を導き出して証明に使う。参考までに追加された公理9(!)と3つの定理を示す:

Ax 9. ∀x. ∃y. is-attribute-of( y, x )
DP 5. ∀x.[ is-substance( x ) V is-mode( x ) ] 
DP 6. ∀x.[ ¬ ( is-substance( x ) ∧ is-mode( x ) ) ]
DP 7. ∀x. ∀y.[ is-attribute( x, y ) ∧ is-substance( y ) ⇒ x = y ]

Ax 9.  全てのものに(少なくとも1つ)属性がある
DP 5. すべての x について、x は substance であるか、 mode である
DP 6. すべての x について、x が同時に substance で mode であることはない
DP 7. x が y の属性であり、また y が substance なら x = y である

これらを新たに追加すると、定理4を Jarrett が解釈した論理式を証明できる。その証明過程は煩雑なのでここでは説明しない。

一番の疑問は Spinoza が証明に用いた公理と定義を一切使っていないことだ。Spinoza がそこまで間違うなんていうことがあり得るだろうか。以下が Spinoza の証明(あるいはその概説)である。

DEMONSTRATIO
Omnia, quæ sunt, vel in se, vel in alio sunt (per Axiom. 1) hoc est (per Defin. 3 & 5) extra intellectum nihil datur præter substantias, earumque affectiones. Nihil ergo extra intellectum datur, per quod plures res distingui inter se possunt præter substantias, sive quod idem est (per Defin. 4) earum attributa, earumque affectiones. Q.E.D.

まず公理1をみよ、と言っている。以下のものだ:

Omnia, quæ sunt, vel in se, vel in alio sunt.

存在する一切のものは、それ自身のうちに在るか、他のもののうちに在るか、そのいずれかである(高桑訳)

次に定義3と5をみよ、と言っている。

Per substantiam intelligo id ; quod in se est, & per se concipitur : hoc est id, cujus conceptus non indiget conceptu alterius rei, à quo formari debeat.

定義3:実体によって私は、それ自らの中に存在し、しかもそれ自らで理解されるもののことを理解する(以下略 高桑訳)

Per modum intelligo substantiæ affectiones, sive id, quod in alio est, per quod etiam concipitur.

定義5:様態によって私は、実体の諸変容、もしくは他者のうちに在り、それを通じても実体が把握されるもの、を理解する。

ここまでで言えることは、「存在するのは実体と様態だけだ」ということだ。次に Spinoza は定義4をみよ、と言う:

.Per attributum intelligo id, quod intellectus de substantiâ percipit, tanquàm ejusdem essentiam constituens.

定義4:属性によって私は、知性が実体について、あたかも実体の本質を構成しつつあるもののごとく把握するところのもの、を理解する(高桑訳)

これで証明が終わりなのだ。ちなみに私は実体の「本質」を Being すなわち活動とみる。この点は最後に関係する。
さて、日本語訳(高桑)で Spinoza の論証過程を追ってみる:

およそ存在する一切のものは、自らのうちに在るか、他のもののうちに在るか、である(公理1)。ということは、(定義3と5により)知性のほかには、諸実体および諸実体の諸変容を除いて何物も存在しない、ということである。

ここまでで「存在するのは実体と様態だけだ」と述べている。

それゆえ知性のほかには、諸実体、あるいは同じことだが(定義4により)、それらの属性と諸変容のほかに、多くのものを互いに区別することのできる何者も存在しないのである。

さて、高桑は冒頭に挙げた定義4で「相互に区別される」と訳したが、この証明では「互いに区別する」と訳している。ここにヒントがある。原語の表現をみてみよう:それぞれ "inter se distinguuntur" および "distingui inter se" と書いている( se は itself に相当)。これは代名動詞である。つまり受け身形ではない。

代名動詞は再帰的、相互的、中立的な用法がある。ラテン語については、さらに形式受動態動詞という区分があり、形は受動態だが意味は能動態である:

ラテン語には、受動態と同じ形で能動的意味を表す形式受動態動詞(異態動詞、変位動詞、[英]deponent verb)というものが多くあり、ロマンス語の代名動詞は(形態的には異なるが)機能的にはこれに由来するといわれる。

再帰動詞

「ものが区別される」のではなく、ものが「自らを区別」していくと読むべきであろう。Spinoza の世界には実体と様態のみがあり、これらが自らを差異化していく。(ちょっとフランス哲学っぽくしてみた)

先に、Spinoza の実体はBeing であって、属性(の集合)がそのBeing を総体的に構成するとの解釈を述べた。その解釈に基づいて定理4を訳してみる:

二つ、もしくは多くのものは、実体の属性の多様性によってか、でなければ変状の多様性によってか、いずれかによって自らを差異化する。

このように解釈すると、Spinoza 自身の論証で十分である。公理や定理を足す必要がない。旧訳では' diversitate' が「実体の属性の差異」あるいは相異と訳されているが、差異化の前の状態を指すから、「多様性」とするのが適切に思う。いろんなものが含まれた混沌の状態だ。それが原動力となって差異化していく。

このように理解した方が Spinoza の趣旨に近いはずだ。生命のダイナミズムを念頭に読んだ方がいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?