【常夜の望月】
手招きして 誘き寄せて
おいでませ。永遠に続く夜の世界へ。
何時の間にか迷い込んでいる常夜は、一寸先すら分からぬ闇の世界。これを照らす明かりは、細く棚引く黄金の月光と鋭利な刃の瞳。
ぽっかり、夜空に穴が開いた様に見える頭上だけの真ん丸い空間。僅かに視線を上げれば、蜜色に輝く満月と直に目が合い、その神々しさに魅入られそうになって、思わず眉をひそめた。
その結果、漆黒の夜を映した双眸が鋭く尖る。元々、刃を向ける様な営利な視線が宙に浮かぶ満月を見やって、それから杯の中に大人しく収まっている酒に注がれる。
右の掌に置いている状態の杯を傾ければ、ちゃぷり、小さく波打った透明の液体が微かな、耳に心地良い音を伝えた。
無造作に見れば、杯の中の液体にも光が反射している。少しでも杯を傾けたり、聞き手に力を込めたりするだけで水面の月は右へ左へ揺らり、揺らり。夜空の月は、人の力を加えても全く変わりもしないくせに此方の月は、やけに扱い易い。
サラサラと自身を照らす月光を気にする事無く、何時もの様に杯の端に口付けて、煽った。
僅かに開いた唇から口内へと流れ落ちてくる何とも言えない味が、ゆったりと味覚を支配する。鼻先に酒独特のほろ苦い香りが充満して、微かに冬を知らせて来る、北風が攫って行った。
口内の液体を飲み下せば、喉を滑り落ちる辛味と口内に満ちる熱さ。
ふと、口の端を吊り上げる様にして口元だけに笑みを見せると、そのヴォルグは営利に尖った視線を宙に戻―――さずに自分の右隣に寄越した。
先程から、視界の端れに見えていた白い肌と、不機嫌そうに深い紫の瞳を宙に浮かぶ月ばかりに向けている人物を見据え、飄々と声を投げ掛けた。
「傷が、痛むのか?」
「…別に。…あんたは、痛くないの?」
「痛覚を遮断している故。」
飄々と返答に返答を重ねた狼月の横顔に、紫の視線が向けられる。空の杯を指先で弄び、漆黒の刃の視線を、それに合わせる。
呆れた様な、不満そうな感情が込められた瞳を皮肉気に見返して、喉を鳴らす様に小さな笑いを零す。この夜に光を与える月が、暗闇に端正な顔を浮かび上がらせる。
鉄紺色の髪をオールバックにしているせいで、良く見える獣の鋭く尖った牙を連想させる双眸。大人びた表情や、たまに見せる幼気な表情を浮かべる口元。逞しい腕に、広い背中。
背中に背負っている大刀ですら、闇に差す光で浮き彫りになった様にハッキリ、見える。
自身に降る柔らかな光を見上げながら、狼月はこの事の始まりをボンヤリと思い出していた。
久し振りに手合わせをしたまでは、良かった。最初は肩慣らし程度にお互いが楽しんでいる要素を含めて戦っていたのだが、徐々にヒートアップしていくと同時に剣を振るう自分の腕が、薙刀を構えるプリケリマの腕が本気を帯びて行ったのだった。
そのせいで、丁度攻撃を受け流そうとしたプリケリマの肋骨に自身の大刀の柄が見事にクリーンヒットし、逆に反撃しようとした自分の胸元にプリケリマの薙刀の柄で思い切り突かれた。と、言う数時間前の話だ。
先程から、右に視線を向ければ脇腹を労る様にさする白い手が見えるし、自分の胸元にも痛みを訴える感覚が全く無い。自然に緩んで来た視線を、のんびり満月に移せばその光が急に赤味を増した様な気がした。
何時の間にか迷い込んだ月が、常夜の世界を照らす
酒を注ごうと、酒瓶を求めて伸ばした指が空を掻いた。見れば、先まで当たり前の様に其処に置かれていた一升瓶が忽然と姿を消している。眉尻を微かに上げ、この空間でこんな事をする相手を、不満をこめた瞳で睨み付ける。視線に気付いたプリケリマは、濡れ烏の髪を掻き上げてから、右手を掲げる。姿を消した筈の酒瓶が、相手の白い指先に絡め取られながら、姿を表した。
月光に照らされた唇が、小さく笑みを刻んでいるのを伝えている。どうやら、多少ながら機嫌と痛みは収まって来たらしい。
不満を訴える為にスウ、と自分の目が細まったのが分かった。催促する様に伸ばそうとした、杯を持っていない方の手が発せられた声に、急に動きを止める。
「何なら、酌でもしましょーか?」
遊び女を思い出させる、人をからかう余韻を持った彼女の声。
煌々と照る望月の光に照らされて、狼月は無表情だった顔に新たな表情を加える。その様子を見て、プリケリマは本日始めて満足そうに笑って見せた。
それは、誘いに乗って杯を差し出しながらも、何処か呆れた様子で苦笑した、何時もの表情。
何時の間にか迷い込んでいる常夜は、一寸先すら分からぬ闇の世界。
照らす明かりの月光が当に沈もうとも、欠けようとも、刃の瞳は何時までも常夜に紛れ、鋭く光る。
常夜の中、杯の中にまた望月が満ちて、ゆっくり飲み干された。
チロさんへ