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五輪に憧れるのはやめないか

五輪代表選考にもれたといってTVカメラの前で泣く女子選手がいた。本はおろか新聞も読んでなさそうな若い子たち(昨今は十代もざらで、二十歳前後は中堅と呼ばれる)はたぶん本間龍の『東京五輪の大罪』も、同書のレビューで「五輪はオワコン」と書いた玉木正之の書評も読んではいまい。

もっとも、「五輪」といえば批判精神完全オフの日本のメディアの翼賛報道を見れば、少女らだけを嗤えない。

アスリートがあれほど強い渇望と憧れを寄せる五輪はそれに見合う価値と権威をいまだにもち続けているだろうか?

五輪のユニークさはなんといっても一都市で複数競技を同時開催することにある。思えば不思議なことである。習いとなってしまった今、一旦立ち止まってゼロベースで考えた時、「複数競技同時開催」にどんな必然性やニーズがあるだろう?

答えは皆無であるうえに、不合理かつ不都合な真実のみが浮かび上がってくる。

〇時期にかんしては、昔はそれでも「スポーツの秋」に実施されていたが、いまや真夏が恒例。屋外競技全般、なかでも陸上競技が割を食う。マラソンや競歩に象徴されるように、五輪はいまや最高のパフォーマンスを発揮する場ではない。

〇なぜ真夏かといえば、五輪実施に欠かせない莫大な財源=放映権料を担う放送メディア(なかんずくアメリカのそれ)の発言権が絶大だからである。かれらは開催時期だけでなく、競技開始時間にまで口を出す。五輪はいまやスポーツ本来の論理で動いてはいない。

〇「複数競技同時開催」のために開催都市が負担する金銭的環境的コストは莫大で、都市主体と言いつついまや公金投入が慣例となっている。選手村やふだん馴染みのない競技の施設を建設せねばならず、負の遺産が未来に残される。ゆえに開催国も開催都市もどんどん限られてきている。そんな開催都市や市民の苦渋には目もくれず、ひとつ終わればIOCは次の開催都市へと飛んでいく。気楽なものである。

〇五輪がなくてもアスリートの自己実現の場がなくなるわけではない。ピザ作りやパン作りにも世界大会があるこの時代、五輪採用競技で世界大会を持たないものはあるまい。そこで頂点を競えばいいのである。わざわざ屋上屋を重ねる意味がどこにある!?

〇アマチュアスポーツ最高の祭典という能書きもプロ参加が常態のいま、有名無実である。近代五輪のモットー「参加することに意義がある」も、国連加盟国数を参加国数が超えたいま、スポーツ普及の目的はとうに達成済みである。

〇五輪がザベストオブベストを決める大会かといえばそうではない。サッカーワールドカップ、テニスの4大大会、自転車のグランツール、そこでの勝利を五輪のそれより上位におく当該アスリートがいたらモグリである。それでも五輪に顔を出すのは母国の五輪委員会(OC)のメンツをたてるためだけでしかない。

〇五輪だけは「国を背負って戦える」とか「国民の応援が」というが、競技個別の世界大会だって国を代表していることに変わりはない。かろうじての違いは国別のメダル数順位のみ。しかしこれも国によって参加競技数が違うのだから比べること自体に無理がある。国民の応援というが、買いかぶってはいけない。大多数は3年と11か月のあいだは無関心、たかだか一か月限りの不実なファンにすぎない。

(すでに複数競技同時開催は不合理と書いたので、以下はなくもがなの議論だが…)

〇競技の新規採用についてIOCに確固たる哲学があるとは思えない。石頭と言われそうだが、スケボー、BMX、サーフィン、直近ではブレークダンス(!)などを見せられると、「曲芸はスポーツか」と言いたくなる。最低限、競技人口(普及度、裾野の広さ)を考慮しているとも思えない。競技人口で言うなら、既存の競技にも疑問符がつくものはある。馬術競技、カヌー、ヨット、ボートなど、一般人は4年に一度、それもごく短期間目にし耳にするだけだろう。競技に序列をつけるつもりはない。くどいようだが、それらは個々に適切な季節に適切な場所で世界大会が開かれている。それで十分ではないか。

〇下世話なことを言えば、巨大なピラミッドを超人的な努力で登りつめて獲得するメダルも、小さなピラミッドのそれもひとしなみに1個とカウントされることに違和感はないのか? どちらも後世、五輪メダリストと呼ばれることに。

〇かくして、五輪はアスリートがそう思いたがるほどアスリートファーストのイベントではない。IOC、スポンサー、放送メディア、ゼネコン、ブローカーらはスポーツの伝道者でもなければアスリートの代弁者でもない。五輪という蜜壺に群がる守銭奴アリにすぎない。「それでも五輪に憧れますか?」とアスリートに問いたい。その点、大迫傑や新谷仁美のさめた発言に好感を持つ。とくに「勝負よりも記録を」という新谷の発言は、記録を追う競技者として、大人の事情で「勝負に徹せざるを得ない」五輪にノーを突きつける勇気ある発言である。


最後に蛇足をひとつ。

五輪や万博、リニアモーターカーなど、メガプロジェクトが動けば下々まで経済が潤うという、ニュー・エコノミストらが唱道したトリクルダウン理論(おこぼれ効果)はとうに破綻している。なのに日本人は洗脳が解けていない。大阪万博については、それでも反対論が報じられるようになったが、他二者にかんしてはお寒いかぎり。とりわけリニアにかんしては、川勝元知事の不規則発言にかこつけて、愛知県知事やホリエモンやひろゆき氏らがおらついているのは笑止。かれらは「リニアモーターによる旅客輸送」が筋の悪い技術の袋小路(拙論にて既述)であることに気づいていない。

「おこぼれ」どころか、失敗必至のリニアのために、JR東海の利用者は何十年も前から開発費を上乗せされた運賃を払い続けているのだ。嗚呼!

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