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国会議事堂を建て直そう

何十年も前に耳にした逸話をひとつ。初来日のフランス人をアテンドして千代田線に乗っていた男性。国会議事堂前駅に到着したときのこと。フランス人が駅名プレートのアルファベット表記を読み上げたところ、男性が吹き出してしまったという話。なぜか?

  kokkaigijido-mae コッケィジジドーメィ

つまりは、「滑稽爺堂めぇ」と聞こえたのである。

いままさにあの中で演じられている政倫審という名の茶番劇を見ていてこの逸話がよみがえったことである。悪いことと分かっていて裏金蓄財をする確信犯の爺たちに倫理を説く能天気な爺たち! 滑稽爺の面目躍如である。要は金の出所を止めればいいのである。どこか名のある献金企業の経営者を贈賄罪ans/or背任罪で立件するのだ(現行法で十分!)。一罰百戒、それを見たら企業・団体献金はおのずと止まるだろうに。


中身が腐っている。だから建て直そう、と言うのではない。唐突だが、「国会議事堂を建築として美しいと感じますか?」と問われてYESと答える人は何パーセントぐらいいるのだろう? 

筆者は若いころからあれを美しいと感じたことがない。中身同様無粋でかつ醜悪だなと。よってつねづね、一国の立法府を収めるのにふさわしい威厳ある建物に建て替えてほしい、いな建て替えるべきであると思ってきた。

思うに、上記の問いをかけられた日本人の多くは当惑の表情を浮かべるのではないか。そもそも国会議事堂を鑑賞の対象として見てこなかった、あるいは、紙幣の意匠として採用されたり、はとバスや修学旅行の定番の立ち寄り先である以上「名建築なのでは」という風に、自らの判断を棚上げにしてきたのではないか。

ことほどさように国会議事堂の建築としての美醜いかんは沈黙あるいは無関心をもって遇せられてきた。建築の専門家が国会議事堂を美しい名建築として賛美する声を寡聞にして聞いたこともない。難じる声もないが、「ひどい」と思っていても、それを口にする動機はあるまい。筋違いの反発を招くだけである。百害あって一利なし。失うものが大きすぎる。

こんな大胆なディスりができるのは失うもののない無用老人の特権である。建築の専門家でもない筆者の判断基準はもちろん素人にも分かるその美観・美醜のみ。下手な説明を並べるより、いまはネットの時代、海外の国会議事堂をブラウズすれば一目瞭然である。

アメリカ(キャピトル)、イギリス(ウェストミンスター宮殿)、フランス(ブルボン宮殿)の国会議事堂の美しさはどうだ! なんなら、アイスランドのあたかも町の公民館のようなそれにも日本のそれは負けていると感じる。

これらの美しい国会議事堂と比べた時、日本のそれに決定的に欠けているのは様式美だと思う。全体として西洋建築をまねておきながら、意匠は出自不明の無様式。「型にはまらない独創上等」と反論があがりそうだが、アクロポリスの神殿を賞賛するのと同じ口で日本の国会議事堂を美しいとする人の審美眼は信じるに足りない。

器はどうあれ、その中で立派な政治が行われればいい、という言い方もできる。ふりかえれば、上に挙げた美の殿堂のなかで人類史に汚点を残す決定が多々なされてきたことも事実であり、この国では常時茶番劇が演じられてもいる。だからこそ(ここからが強弁のそしりを免れないが)、そうした人間界のドロドロとした人事百般、有象無象とは無縁の美を国会議事堂は体現してほしい。見るものを粛然とさせるような威厳と重厚さをもってたたずんでいてほしいと思うのである。

国会議事堂の創建は1936年というから、もうすぐ100歳である。いまから再建の準備を始めてもいいのではないか。


以上、無用老人の妄言だが、最後にそんな妄言を補強する事実をひとつ書き留めておく。

管見では、国会議事堂の意匠を「ひどい」と公言した人がひとりいて、それは司馬遼太郎(たしか『街道をゆく』のなか)である。司馬の歴史認識には首をかしげる点もあるが、この件に関しては至当であり、勇気ある発言と評価したい。

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