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向田邦子『父の詫び状』

この高名なエッセイはもちろん前世紀から知ってはいたが、なぜか縁がなく読まずにきたが、あるアンソロジーに収録された向田の一篇を読み、手に取る気になった。

評判に違わぬ珠玉のエッセイ集だった。だれもというわけではなかろうが、ひとりの女性の幼少期の記憶がこれほど精細でかつニュアンスに富んだものとは知らなかった。

タイトルに導かれて複数の挿話が記憶の泉からすくい上げられ、時と空間を行き来しながら絶妙に編み上げられて一篇をなし、それが二十数篇並ぶのである。これを出したのは40代後半。脚本家としてゆるぎない名声があったからぽっと出の作家ではないが、処女随筆集にして風格がある。素人が喋々するよりコラムの鬼山本夏彦の賛辞を引くに如くはない。曰く「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」。

周知のとおり、彼女は台湾での飛行機事故で亡くなっている。52歳、キャリアの絶頂期だった。そんな彼女が上記エッセイのなかで、「何回乗っても飛行機の離着陸時は平静でいられない」と書いていて胸を衝かれた。当時はまだ海外渡航は珍しく、なかで彼女は渡航歴の多い女性だったはず。他の一篇では南米旅行でペルーからアマゾン中流のイキトスへ飛ぶのだが、たった2便しかない飛行機のひとつが直前に墜落する。迷った末に決行し、無事に帰国している。彼女の最期を思うと、よくよく数奇な運命と言わねばなるまい。


せっかくの縁でもあり、もうひとつ『思い出トランプ』に手を伸ばしてみようか…

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