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レイモン・アロンとサルトル

1905年3月にレイモン・アロンは生まれた。日本では圧倒的に知名度の低いアロンはサルトルと同い年で、高等師範学校の同窓だった。二人の名前を聞いて懐かしむ人はせいぜいが65歳以上、耳にしたことがある程度なら遡っても還暦以上のひとに限られるだろう。サルトルより8年長生きして1983年に他界した。優れた社会学者であると同時にジャーナリズムの最前線でも活躍した。

冷戦時代を評して《paix impossible, guerre improbable》という名言を残したことは有名である。彼の政治評論が実に的確で長きにわたりブレなかったことは、没後の高い評価で明らかだが、生前は常にサルトルと対比され、サルトルの舌鋒の標的として引き合いにだされるのがせいぜいだった。ところで、アロン自身の『回想録』やNicolas Baverezが書いた評伝、アロンとサルトル二人の歩みを追ったJ-F.Sirinelliの評伝などを読むと、現実の政治を観る眼は大人と子供ぐらいの差があったことが分かる。サルトルの見解がしばしば揺れ動き、現実に裏切られ続けたのに反して、アロンの見解はあたかも座標軸のように確固としていた。

日本のメディアや学界がアロンを正当に評価できなかったのは、刺激の絶対値に反応するメディアの性(さが)もあるが、生前にしてすでにできあがっていたサルトルの神話性によるところが大きいだろう。日本だけが責められないのは、フランスでも次のような理不尽なコメントが話題になったことでも分かる。曰く、

「アロンとともに正しくあるよりは、サルトルとともに間違う方を選ぶ」と。

アロンに対して実に心無い評言であり、意味のないレトリックだが、当時は気の利いたせりふとして若者たちにもてはやされたのである。日ごろは温和で冷静なアロンがこの言葉にだけはいらつきをあらわにしたという。さもありなん。

ことわっておくが、サルトルの全否定をしているのではない。アロンも正当に評価したように、サルトルの文学作品が後世に長く生き続けることは間違いないだろう。そして『存在と無』も。

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