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終戦の日2020

noteの投稿は久々です。

しかもここは、いつもはLGBTについて思うこととか、実体験とかを書いてきたところなのですが、今日はちょっと、いろいろと考えたことがあったのでここに残しておくことにします。

というわけで、今日は「終戦の日」ですね。

「終戦記念日」という方もいますが、ぼくはこの表現、ちょっと違和感があってあまり使っていません。「終戦の日」と言っています。

ここ数年、ぼくはこの日に靖国神社へ参拝に行きます。今日も行ってきたのですが、土曜日ということもあって想像以上の人出で、何よりとっても暑かったので参拝はせずに御守とおみくじを買って帰ってきました。

今年に入ってからの感染症対策で、そんなに出歩く人はいないんじゃないかと思っていたのですが、甘すぎましたね。かつ、さくっと参拝してさくっと帰ってくるつもりでいたので、水分を携帯するなどの熱中症対策をまったくしていませんでした。完全に「丸腰」です。

それでも30分くらいは並んだのですが、参拝の列ができていたところは日陰がほとんどなく、身の危険を察知して早々に脱落しました。倒れてからじゃ遅いからね。

帰り際、ロイター通信の記者という方に呼び止められまして、靖国参拝や戦争についての取材を受けました。ぼくみたいな者が偉そうに答えていいものか、と思いつつ、これも貴重な体験かと思って5分程度の取材に協力させていただいたのですが、そこで自分が話したことを反芻してみようと思います。今日の本題はここから。

そもそもぼくは、4年ほど前に仕事の関係で知り合った方の影響で靖国へ参拝するようになりました。その方は「先人たちへの感謝を忘れずに」ということをよく話されていて、そのための行動として「お墓参り」と「靖国参拝」を挙げられました。その方とはもうお会いしていないのですが、なんとなく、毎年の恒例行事としてこの日があります。

「靖国参拝」という行為自体が批判を受けることがあるけれど(特に政治家さんが参拝するとニュースになったりしますね)、ぼくはこれがぼんやりと疑問でした。良くも悪くも、あの戦争があったから今の日本があって、ぼくらは平和に暮らせているのだから、戦ったことにも意味はあって、感謝くらいしてもいいんじゃん?とぼくは思います。精神的にも身体的にも苦しい思いをして死んでいった方々に、今のぼくらができることって、それくらいしかないじゃないですか。

起きてしまったことは仕方がない(そう思えない人もいるだろうけど)。二度と起こらないようにすればいい。そのために、年に1回でも、戦争を回想する機会があった方がいい。その節目の日を、玉音放送が流れた8月15日にしましょうってことですよねきっと。

あさーい知識で申し訳ないけど、ぼくはそんな風に思いました。

それとぼくは、靖国に限らず、神社って気持ちが引き締まる感じがして好きなんです。今日はちゃんとお参りできなかったけど、買い物で境内に入ることができたので、それだけでも良かったと思ってます。せめて、あの空間を感じたかったから。

定期的に靖国へ参拝されている方々も、そういった思いもあると思うんです。戦争に所縁のある場所、というより、その方の個人的な思い入れのある場所が、たまたま靖国だった、みたいな。

だから、「靖国参拝」そのものを批判されている方は、もう少し優しくしてあげてほしいなって思います(苦笑)。

ぼくは争いごとが嫌いなので、戦争は勘弁していただきたいのですが、ここ最近の日本は(主にネット上で)誰かを陥れたり、誹謗中傷があったり、差別があったりして、争いごとの火種が多くなっているなぁと感じます。ちょっと不安。

繰り返しになるけど、もう少し優しくしてあげてください(苦笑)。

毎日を過ごしていたら「イラッ」とすることもあるだろうけど、その「イラッ」を、他人にぶつけるのはよろしくないなぁと思うんです。じゃあ、何にぶつけましょうか・・・・・・サンドバッグとかどうでしょうか。嫌いな上司の顔とか思い浮かべて殴るのもよさそうですね。っていうか、VRとかでそういうアトラクション作れそう。人を殴るのはヴァーチャルの世界だけにしましょう。きっと治安も良くなります。

ちょっと話が逸れましたけど、そんな感じで、人に優しくすることを、みんながちょっとずつ実践していったら、争いごとも少なくなるんじゃないかしらと思いました。とりあえず、SNS上の見えない相手に「こいつなら何言ってもいいだろう」って思うのだけは辞めてあげてほしいですね。

戦争はあってはならないこと、というのは、これから先の未来もずっと伝え続けていくべきだと思います。ただ、終戦から75年経って、実際に戦時中を生きていた人の話を聞ける機会が少なくなっていく中で、当時のことを正しく知る、というのが難しくなってきていると思います。これはもはや伝言ゲームみたいなものだから、ある程度「薄まっていく」のは仕方がないことなのかな。ちょっと哀しいけれども。

でも、風化させてもいけないから、まずはぼくらが可能な限りちゃんと「知る」ことなのかなと。そろそろぼくらは後世に「伝える」側になりつつあるのだけど、恥ずかしながら今のぼくには到底無理な話なので、もうちょっと勉強しなくちゃなりませんね。

最近、マスメディアが伝えていることの信ぴょう性がなさすぎてがっかりすることが本当に多いので、どうにかして「信じられる情報」を見極める力がほしいですね。あと、ひとつの意見だけを鵜呑みにしないことも、きっと大事。

今日ぼくが話したことをまとめると、だいたいこんな感じです。急に受けた取材だったわりには、まともに答えられたんじゃないでしょうか。

久々に自分の言葉で、今感じていたことを話しました。そのおかげでまた、こうして自分の言葉を書く気持ちにもなれたので、なかなかいい体験だったのかな。

そういえば、取材中はカメラも回っていたんだけど、海外向けのもので日本での放送はないようです。まぁ、放送されたところで、自宅にテレビのないぼくには見ることはできないんだけども。

予想以上の混み具合で参拝を断念して「事前に来ておけばよかった!」と思ったけど、こういった貴重な体験もできたので、やっぱり「行ってよかった」と思いました。

最後まで戦ってくれた先人たちには、また改めて、もうちょっと空いているときに、ご挨拶に行こうと思います。

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