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流されていく

私は自分で決めることがとても大事な人間だった。そう、過去形になっている。今はなるべく自分で決めないようにしている。その方が面白いことがたくさん起きるのを知ったからだ。

大統領には毎日着る服を決めてくれる専門の人がついているらしく、それは他にもっと重要な選択をしなければならないからいちいち服なんて選んでいられないからだそうだ。私たちは服のように、日常の中でたくさんの選択をしている。何を食べよう、どこへ行こう、誰と会おう、何を話そう。常に選択の連続だ。時には進路や就職先、住む場所、結婚相手など、今後の人生を大きく左右する選択を迫られることもある。そうやって選び続けているうちに、自分で決めることは当然のように思えてくる。「自分で決めることの大切さ」みたいなことを説いている人たちも多い。実際に私もそんなようなことを過去のnoteで書いた記憶がある。後悔しないために、幸せになるために自分自身で決めるようにしよう!と言われれば、多くの人たちがその論に納得するだろう。

でも自分で決めまくってきた私は、今ではその論を疑っている。決して自分で決められない優柔不断な方がいいと言っているわけではない。自分で決めることにこだわりすぎていると、他のことが全く見えなくなってしまうのだ。半年後に大きなプロジェクトを決めたとすると、その間にやってくる出来事には目を向ける余裕がなくなる。方向転換を促されたり、もっとこうした方がいいという意見があっても、自分で決めたことに責任を取らなければならないと思い込んでいて、なかなか変えることができない。自分で決めることが後悔や幸福へ繋がっているのなら尚更だ。私は自分で決めないことが不安で仕方がなかった。決められたことに対して、どう責任を取ればいいのかが分からない。1年後が真っ白なスケジュールをどう決めていくかを必死になって、決まっていること自体に安心していた時期もある。むしろ決めてしまえば、そこまでは何も決めなくていいから楽チンだった。自分が幸せになるために、後悔しないために自分で決めることは、ある意味他人を遮断するための楽をしようとしているのかもしれない。

自分で決めていった先はどうなるのかというと、選択肢がとても少なくなってしまい、キャパシティも狭くなっていく。自分で決めてきたことしか残っていないのだから当然だ。自分を広げていくためには他人の解釈も必要なのに、自分で決めすぎるとその隙間がなくなってしまう。時には誰かに服を決めてもらったり、やるべきことを決めてもらう必要もあるのかもしれない。それが自分の幅となって、想像もしていなかったことが起きたり、得意なことだったりする。自分の良さは、自分が一番分かっていない時が多い。

私は今、とことん流されてみている。オススメされた場所へ行ってみたり、やってみたらと言われたらやってみたり、それいいねと言われたら磨いてみたりしている。最終的に決めているのは自分かもしれないけれど、他人の言葉をとても信用するようになった。自分が決めた先の解釈の狭さを痛感して、これ以上広がっていかない限界を感じて、私の脳みそはとても小さいなと思った。だから疑いがあったとしても一旦はとりあえず流されてみて、その先の景色を確認してみる。違うなと思ったら引き返せばいい。確認してみたらわりといい感じで、行きっぱなしなことは多い。そうするようになってからは、色んなことをやるようになったし、色んなことが見えるようになった。自分で決められるほど、この世界は狭くない。実際には自分で決められないことばかりで、決めていると思い込み、勘違いしているだけだ。何でも自分で決められると思った瞬間に、世界への視界は狭くなっているのかもしれない。

だから大事なのは、自分で決めることにがんじがらめにすることでも、優柔不断になることでもなく、流されてもまた戻って来られる柔軟性だと思うようになった。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、整ったり崩れたりしながら、川のように自分の幅を広げていく。その方が面白いことが色々と起きて、人生が退屈にならない。だから今日も私は流れられるところまで流されてみる。

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