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無敵ではない人

風景画展が始まり、少し慌ただしい日常を送っていた。お店での搬入作業をし、初日ではたくさんの方が来てくれて、テレビの取材も2本受けた。そして私は今、鬱に入って動けなくなっている。スマホの今月のギガ数が足りなくなるみたいに、キャパオーバーになってしまっているようだ。以前までは波があるのを隠していたから、側からしたら上手くいっている部分しか見えず、無敵な人に思われていた節がある。移住して1年も経たないうちに個展を開いて、メディアに出ていたらどっからどう見ても上手くいっている人に見える。まあ、活動している多くの人が上手くいっている部分しか見せていないし、イメージにも直結してくるからやっぱり言いづらい。母親にはもっと弱い部分を見せた方がいいと何度か言われたことがある。私は基本的に調子が悪く、時折り現れる躁に頼って生きてきた。当時そんな私が思ったのは、弱い部分を見せるってどうやるんだろう?だった。良く見せる方法は分かっていても、欠陥を見せてしまうのはプロデューサーでもある自分としてはどうしても許せない。つまり、欠陥=ありのままの私を見せることができなかった。今はもう隠さなくなったからこうして言っているけれど、どうか心配はしないでほしい。躁鬱人の鬱は鬱病と違って登録解除ができないサブスクになっているから、プレイリストをシャッフルで聴き流すみたいに、躁鬱の波も乗り過ごしている。

とは言っても、日常生活に支障をきたすレベルで動けなくなってしまう時があるから、色々と大変ではある。一番の問題はご飯だ。弱っている時に脳みそは即効作用のある甘いものや、ジャンキーなものを欲する。でもそれらは鬱を促進させてしまうから、一時的によくなったと感じてもまたすぐに調子が悪くなる。だから調理をしなくても食べられる納豆やヨーグルト、サラダにできる野菜などを買い置きしたり、一回だけ頑張って作り置きをするようにしている。

次に問題なのは、何もできなくなるから余計なことを考え始めてしまうこと。要は暇なのだ。元気があれば何かしら動いて気を紛らわせるけれど、何もできないから暇になった脳みそが勝手に思考を始める。そしてその思考は大体よくない方向へ行く。だから私は絵を描いて気を紛らわせている。身体は動かなくても、指先だけは動いてくれるからだ。絵は私を否定も肯定もせず、ただただ今の記録として残していくような感じで、引っ張った線がそのまま私の心の奥底へと伸びていき、心の安らぎへと繋いでくれているような感覚すらある。さらに実際に引っ張った線が紙の上へ残ることによって、何かをやったという達成感も味わえている。

この目に見える形で何かが残ることはかなり大事だと感じていて、同時に結果が伴わないのも重要なポイントだと思っている。絵を描いておしまい、にしておくということだ。鬱になって無駄に焦ってしまうのは、ちゃんとしなければならないという虚構の脅迫概念に囚われている時が多い。私たちには「普通」という基準が存在していて、これは人間が戦争をするようになってから作られたイメージらしい。それまでは結果なんて気にせず、もっと適当に生きていた。私の欠陥だと思っていた部分も、普通という基準の下で評価しているだけであって、そもそもその基準がなければ欠陥にはならない。何もできなくなったっていいし、ご飯が作れなくなったっていいし、絵はただ描いておしまいでいい。そんなことをもっと気軽に言えて、思えるような社会になったらいいなあなんて思うこの頃。

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