河瀬直美氏による蔵王堂の木材の解釈について

映画監督・河瀬直美氏が東大入学式で述べた祝辞が話題になっています。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2022_03.html

ロシアとウクライナの戦争に関しての言及が猛批判されています。https://www.huffingtonpost.jp/entry/shukuji_jp_625625c7e4b0be72bfefec0d

私もこれらの批判に賛同しますが、ここでは他の部分について書きます。金峯山寺の蔵王堂に使われている木材についての言及です。当該部分を引用します。

先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。本堂蔵王堂には、山から伐ってきたままの大きな樹の柱が御堂を支えています。それらの樹は全て違う種類で、それはまるで森の中に自らが存在しているかのような心地になるとのことでした。なるほどその存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているようです。この世界観、精神性が今の自分に大きな希望を与えました。元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があり、それを次の世代の人たちに伝える大切な役割があるのでしょう。あなたが今日ここにあって、明日から、かの大木の柱のように、しっかりと何かを支え、しっかりと何かであり続ける人であってほしいと願います。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2022_03.html

この部分はまず大きな柱が全て違う種の木で、「まるで森の中に自らが存在しているかのような心地になる」という、(河瀬氏を通した)金峯山寺管長の感覚の話から始まります。材木は最低でも枝打ち、剥皮、乾燥がされていなければ数百年持つ柱にはならないはずですが、なぜかここでは「山から伐ってきたまま」と表現されています。

次にそれが「なるほど存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているよう」という河瀬氏の感覚に移行します。この段階で柱の木には「多様な種の木がそれぞれの役割を全うしている」という意味づけがされています。そこに「よう」という留保がつきます。つまりこれはあくまでも「私にはこのように見える」という話です。

しかし直後にこの「私」の感覚は突然「世界観、精神性」へと飛躍します。まず空間的に爆発的に拡大し、河瀬氏が見てとった意味には精神性という奥行きが与えられます。それらは氏に大きな希望を与えます。その世界は「私」が付与した意味だけで満たされているのですから、これは当然のことです。そこで「私」は全知全能です。

「私」のこのような空間軸上の拡大には「元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があ」ったという時間軸上の拡大が続きます。「私」の感覚、「私」の理解は、尊ばれるべき普遍的価値に格上げされます。一応は「あるのでしょう」という留保がつきますが、河瀬氏がこの「思想」を「次の世代の人たちに伝える大切な役割」に、東大の新入生に祝辞を述べている自分の立場を重ねていることは疑う余地がないことです。つまりここで「私」の拡大は未来にも(他人にも)向かっています。

「私」=世界。「私」=歴史。

河瀬氏は自分で蔵王堂の柱に意味づけしているのですが、それが元来あったものであると夢想し、その隠された「真理」を発見した悦びで満たされ、東大に入る若者に宣べ伝えています。少し前の部分ではこのように言っています。

自分の部屋から見える窓の向こうの景色には「真理」が隠されているのです。そしてその「真理」を知ることで、結果的に世界中の人との出会いを豊かにします。それは他でもない自らの言葉でその真理を伝えることのできる自分でいられるからです。これこそがオリジナリティであり、他の人には真似のできない唯一無二のものとなります。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞

寺社仏閣に使用するような大径木は育つのに長大な時間がかかります。木材がほぼ唯一の燃料でもあった近代以前にはそこまで育つ木が貴重で、時代が下るほどに入手が難しくなったというのが森林の資源利用の歴史研究が示す史実です。関西の古寺は戦乱その他でたびたび焼失し、また時には現在を遥かに凌ぐ塔頭や僧坊を木造建築で構えます。現在の蔵王堂は1592年、戦国時代末期に豊臣秀吉によって再建されたものです。これは秀吉が乱世を平定し、各地で大規模な建設事業を行った時期にあたります。

吉野地方は秀吉が京都で方広寺の建設を始める1586年に直轄領にされ、すぐに木材で納税することを命じられます。秀吉は日本史上、重要な森林地への支配力をはり巡らせ、全国から用材を調達できた最初の権力者です。寺社仏閣の縁起からその創建・改築の年代と使用された材木の産地を調べたコンラッド・タットマンの研究を手引きに、そのころの材木の調達事情を考えてみます。

コンラッド・タットマン(1998)「日本人はどのように森をつくってきたのか」築地書館 p.18

江戸幕府が開かれるまで日本の文化的中心は畿内でした。したがって材木の需要は畿内が中心で、森林伐採もそこから広がっていきます。1550年までの伐採圏のうち、箱根より東は主に鎌倉での需要によると思われますが、蔵王堂再建以前にはすでに畿内の調達地が南は熊野、北は能登、西は本州西端まで遠ざかっていたことがこの図からわかります。これはつまり、そこまでいかないと使える木がなかったということです。

秀吉は最高級の木材で豪華な建造物を大量に作ることを目指したため、奥地や遠隔地の手付かずの森林資源に頼らざるを得ませんでした。天然の大径木は中が空洞だったり、節があったりで、柱に使えるものを一本調達するのに数本切る必要があります。さらに丸太のままの運搬には相当な制約もあります。例えば方広寺の建設時には当時東海地方の大名だった徳川家康が最も重要な棟木を提供していますが、その大木は富士の裾野で探し出され、伐採されてから京都まで運ばれるまでに三か月、延べ五万人日の奉仕労働と金貨千両が使われています。

このような再建当時の状況を考えるとき、蔵王堂の柱に様々な樹種が使われていることが事実として河瀬氏が見たような多様性と協調の宗教的表現である可能性は、どの程度のものなのでしょうか。それは、秀吉の権力で大径木を調達できたものの樹種を統一することはかなわなかった、あるいは当時の建築技術ならそこまで必要がなかった、という実際的な事情によるのではないでしょうか。

蔵王堂の柱にどういう事情で様々な樹種が使われているのか、という事実は、管長や河瀬氏が「どう感じるか」とは別のことです。ここでもし「事実ではなく隠れている真理を発見しなければならない。それこそがオリジナリティーだ」という主張が展開されるのであれば、東大は最高学府としてもっとも送ってはならないメッセージを新入生に、社会に、発してしまったことになります。それは偽史のすすめです。

学問とは、まさにそのような欲動を制御するための作法ではないのですか?

偶然、大塚英志さんの「社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門」を読みはじめていたところなのですが、この本で大塚さんは、弟が生まれて母にかまってもらえなくなった柳田が実際には存在しない「神戸の叔母さん」をつくり出し、そこにむかって家出してしまったエピソードを紹介し、そのような創造力を「ロマン主義」という近代社会誕生の前後に起きた思潮で説明しています。

「ロマン主義」というのはこういう「ぼくってみなし児かも知れない」という感傷が「ぼくをお母さんみたいに優しくつつみこんでくれる何か」を想像させるイマジネーションへと連なり、そしてその「何か」はしばしば「歴史」や「古代」や「民族の起源」と結びつくのも特徴です。いわば母性的な「大きな物語」に投げ込まれたい、と考える感情がロマン主義です。ただ、イマジネーションの質はファンタジーに近いものですから、それは「科学的な歴史」とは言い難いものです。何より自分が同一化できる「大きな物語」であることが重要なのですね。

大塚英志(2014)「社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門」角川選書p.57

この河瀬氏の祝辞については、思想的に個人を批判するにとどまらず、「私」と「世界・歴史」を無媒介につなぐことを奨励するロマン主義的な姿勢が東大の入学式の祝辞として発せられるという事態そのものを、我々が近代社会を作り損なっていることの象徴的事実として受け止める必要があるように思います。