韓国百済領域出土の中国陶瓷について

 韓国百済領域出土の中国陶瓷について、王志高論文(村元・柳本両氏訳)[王2014]に至るまでの、最近の中国発表論文の流れを追っておきます。

 2003年に、南京大学歴史系教授・南京大学文化与自然遺産研究所所長の賀雲翺先生が、六朝銭文陶を集めてその時代や性格について論じられました。その中で、六朝銭文陶として最古の事例は東呉赤烏12年(249)の安徽省馬鞍山市朱然墓出土の銭文罐で、最も新しい事例は鎮江高資東晋窖蔵出土の銭文瓮であると述べられています[賀2005]。

 それを受けてなのかどうか定かでありませんが、成正鏞・李昌柱・周裕興の三氏が六朝陶瓷器から中国六朝と百済の交流を論じた文章を共同執筆されました。百済領域出土の六朝の青瓷や銭文陶について、生産地の推定にも言及しながら年代観を述べられており、それらはおおむね中国南京の六朝考古研究者(や私、藤井も)が共有する認識の枠内におさまるものです[成・李・周2005]。ただし、銭文陶に関しては、年代比定の積極的な根拠がなく、南中国における銭文陶と施釉陶の変遷ははっきりしないとして状況的に判断されたものなので、その年代観は大方の意見の趨勢とは異なっています。同論考中で挙げられた韓国出土六朝陶瓷の年代観は下記のとおりです。

  ・夢村土城 銭文罐  東呉末~西晋
  ・風納土城196号遺構 銭文罐   東呉末~西晋
  ・洪城神衿城 銭文罐  東晋
  ・開城 青瓷虎子  西晋末~東晋初期
  ・原州法泉里2号墳 青瓷羊形器  4世紀中葉
  ・天安龍院里9号石槨墓 黒褐釉鶏首壺  4世紀末
  ・天安花城里 青瓷盤口壺  4世紀後半~末
  ・石村洞8号土坑墓外部 青瓷四系罐  4世紀末
  ・益山笠店里86-1号石室墓 青瓷四系罐  5世紀中葉
  ・天安龍院里C地区横穴式石室 青瓷碗  5世紀後半

 執筆者に名を連ねる周裕興氏(南京師範大学)は、南京大学出身で江蘇省の考古学界の重鎮の一人でもあり、六朝考古事情を熟知する研究者なので、同論考には周氏の意見が強く反映されているものと推測されます。いずれにしても、その論考に連名している以上、成・李両氏もその内容におおむね同意しているということでしょう。

 まもなく賀雲翺先生は南京市中山陵園管理局文物処の路侃さんと共著で、南京出土の銭文陶の諸例を資料紹介し、その時代幅、意義・性格に言及されます[賀・路2005]。

 さらに賀雲翺先生は若手研究者との共著で、東アジアの銭文陶を概観しながら、南京周辺出土の六朝銭文陶の変遷観を明示され、あらためて風納土城196号遺構の銭文陶を鎮江高資東晋窖蔵出土資料に最も近いとして東晋に位置づけました。同論考の内容は[賀2005]が骨子となっており重複する部分がありますが、前稿までは六朝銭文陶の存続時期の下限についてぼかした文章であったのが、東晋晩期まで存続することを明示しました[賀・馮・李2008]。賀雲翺先生の一連の認識は王志高氏によっても追認され、後に王氏による論考発表に至ります[王2014]。

 ところが最近、南京大学出身ながら現在は北京大学考古文博学院で教鞭を執る韋正氏が、韓国出土六朝銭文陶について異なる見解を提示されます。韋氏は賀雲翺先生による銭文陶の変遷を信頼できるとしながら、韓国百済領域出土の銭文陶は東呉のものであると断案します。韋氏の論じる内容は、銭文陶は東晋初期よりも後の時期にはない、そして西晋代には歴史背景からして百済と江南が交流する余地はない、したがって銭文陶が百済に入るとしたら東呉期しかない、というものです[韋2011a]。韋氏の論が奇怪なのは、考古学的な変遷の妥当性を認めながら、層位や共伴出土遺物は廃棄時期を示すに過ぎず製作・使用時期とはいえないなどの理由によって、文献に基づく歴史背景などの状況証拠に依拠して銭文陶の位置づけをするという点です。しかしながら、韋氏はその後もこの考えを変えておらず、最近の著書でも同様の論述をされています[韋2011b;2013]。

 最新の動向としては、寧波市文物考古研究所の許超さんが寧波市域で銭文陶が多数出土していることを紹介し、余姚博物館所蔵の余姚市窯頭村採集銭文瓮が鎮江高資東晋窖蔵出土銭文瓮・韓国風納土城196号遺構出土資料と器形が近似することに言及しました。とくに、この余姚博物館所蔵銭文瓮は発掘調査出土ではない資料ながら、器形だけでなく銭文の特徴も風納土城196号遺構出土資料と同様で、最も近似する資料であることを指摘しています。そして、余姚博物館所蔵銭文瓮は鎮江高資東晋窖蔵出土銭文瓮よりもやや長胴化していることから、その生産時期を南朝まで降ることもありうるとします。採集地の余姚市窯頭村には、いまだ銭文陶は出土していないが南朝期の窯跡もあるといいます[許2019]。
 以上、近年の中国における研究動向の現状から総括して、韓国風納土城196号遺構出土銭文瓮の生産時期を東呉ないし西晋まで引き上げる見解は妥当ではないと藤井は判断するに至りました(2019年12月)。

 なお、これらの他に、趙胤宰氏がやはり百済出土の中国陶瓷について論考[趙2006]を発表されていますが、いまだ藤井はこの文献を入手できていません。

 中国におけるこうした研究動向を改めて虚心坦懐に受け止めて、韓国百済領域出土の中国六朝陶瓷は暦年代比定されるべきと思います。

引用文献(氏名五十音順)
韋正2011a「試談韓国出土銭紋陶器的時代」『東南文化』2011年第2期
韋正2011b『六朝墓葬的考古学研究』,北京大学出版社
韋正2013『魏晋南北朝考古』,北京大学
王志高(村元健一・柳本照男 訳・解説)2014「韓国ソウル風納土城の3つの問題に関する試論」『古文化談叢』第72集
賀雲翺2005「六朝銭紋陶瓷器初識」『六朝貨幣与鋳銭工芸研究』,鳳凰出版社
賀雲翺・路侃2005「南京新出土六朝銭紋陶瓷器標本研究」『東亜考古学論壇』創刊号,(財)忠清文化財研究院
賀雲翺・馮慧・李洁2008「東亜地区出土早期銭紋陶瓷器的研究」『考古与文物』2008年第2期
許超2019「寧波地区漢六朝時期的港口与航線」『第六届 六朝歴史与考古青年学者交流会 論文集』,安徽師範大学歴史与社会学院・南京大学六朝研究所
成正鏞・李昌柱・周裕興2005中国六朝与韓国百済的交流―以陶瓷器為中心」『東南文化』2005年第1期
趙胤宰2006「略論韓国百済故地出土的中国陶瓷」『故宮博物院院刊』2006年第2期

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