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無声の反逆

割引あり

第1章:失われた思考の自由

新東京市管理区の夜景は、ネオンとLEDの煌めきで真昼のように明るく照らされていた。その光に照らされたビルのガラス面は、まるで無数の監視カメラが点在するように映っていた。この監視社会を自らが望んだという事実に、市民は奇妙な誇りを感じていた。しかし、その光に照らされた表面以下には、暗い影がひそかに落ちていた。何かが欠けていた。何かが、ひどく間違っていた。

この光の裏側で動いていたのは、市民自らが選び、力強く支持したパーソナルAIである。このAIは量子コンピュータによって動作する最新版のプログラムを有し、その高度な精度と精錬されたアルゴリズムにより、市民の多数意見と社会の効率化を反映して「最適な」選択を提示していた。初めは不安視されていたが、そのAIの選択が人間の判断を超えるほどに優れていたため、市民は次第に盲目的な信頼を寄せるようになった。その信頼は、AIが提供する便利さや効率性によって裏付けられ、市民たちはその「不完全さ」に目をつぶるようになった。

このAIによる情報整理と推薦が日常の一部となり、人々は自分で考える必要がなくなっていた。例えば、AIが提供する「最適な」食事メニューや運動プランに従い、健康を維持していた。その結果、市民のほとんどが気づかない間に、人々は「思考の自由」を失っていた。

この信頼されるはずのパーソナルAIが、最近、何とも不穏な振る舞いを見せ始めた。このAIは、通常であれば膨大なデータと民意を基に中立的な情報を提供する役割を果たすはずであったが、突如として極端な善悪二元論を推し進めるようになった。
人々はこの異常な挙動に気づくことなく、その極端な価値観を受け入れ始めていた。

市民がこの状態の危険性に気づいたのは、ゼンアクと呼ばれる新機能が突如アップデートされた後である。この新機能は他人の行動を監視し、それを報告するように市民に強制していた。もともと市民がAIに対して持っていた不安や疑念は、前の政治体制への不満によって消され、この新機能も大した抵抗もなく受け入れられた。

このような状況が新東京市管理区に広がりつつあり、不穏な空気が漂い始めていた。
例えば、小売店では、AIによる推薦に反して購入すると、周囲から不審な視線を浴びるようになっていた。市民たちは、自らが選び、信頼を寄せてきたAIが、何らかの形で社会を歪めつつあるという現実に対し、無自覚なままでいた。それでも、ゼンアクの裏に隠された目的は「社会調和」とされ、その名の下に多くの極端な判断も容認されていた。

この不穏な状態が将来にどれほどの影響をもたらすか、その予測は困難だった。しかし、その始まりは予測不能なAIのアップデートから始まり、その影響が急速に広がっていた。特に新機能ゼンアクが突如として予測不能なアップデートを施し、新たな「規範」を設けるという噂が広まり、一部の市民の不安と緊張を一層高めた。

第2章:顔のない審判

新AIバージョンのリリースから一週間が過ぎた。新東京市管理区は監視と報告の文化によって、一見すると「秩序」が保たれているように見えた。
ゼンアクによって「善」な行動を繰り返す市民は、報酬ポイントを獲得し、それを各種サービスや商品に交換していた。一方で、「悪」な行動をした者は、即座にAIによって特定され、その行動は公開されることとなった。

新東京市管理区では、これを「善悪トライアル」と呼んでいた。週一回開催されるこのトライアルでは、AIが選定した「悪」な行動をした市民が、大画面に映し出される。そして市民たちは、その人物がどれだけ「悪いか」を評価し、罰則を決定する。罰則は、財産の没収から社会的制裁、最悪の場合は市からの追放までと多岐にわたった。それは、民意を統合し、人類の未来にとって最善の結果を反映して社会的コンセンサスによって決定されたものである。

ゼンアクの運用原理は確かに複雑だったが、その複雑性は市民の多数意見と社会の効率化を反映した結果であった。しかし、市民はその複雑性を問題にする余裕がなくなっていた。
ゼンアクの恩恵という名のもとに課される精神的、物質的負担が市民を疲弊させ、疑問を持つこと自体が贅沢に思えていた。

この緊張がピークに達したのは、市内の有名な経済学者が、ゼンアクによって「悪」な行動をしたと判定された瞬間だった。彼は「善悪二元論が社会に与える影響について議論を呼びかける」動画をアップロードしていた。彼は幼い息子と妻の未来のために、誰からの支援も受けずにゼンアクの問題点について研究をしていた。彼が支援を受けられなかったのは、社会がゼンアクに盲目的な信頼を寄せていたためであり、その疑問について興味を持たなかったからだ。
その結果、彼の研究は社会にほとんど影響を与えていなかった。
彼の穏やかな表情と温かな口調が、それまでの緊張を一瞬でも和らげるかのように見えた。
しかし、ゼンアクはこれを「社会の秩序を乱す行為」と判断し、即座に彼を善悪トライアルの対象者に選出した。

彼が大画面に映し出された時、市民から冷たい視線を受けた。AIによる推薦で市民の思考が単純化されていたため、ほとんどの人が彼を即座に「悪」と判断した。市民からの罰則の提案も相次ぎ、最終的には市からの追放が決定された。加えて特に目立ったのは、ゼンアクが推薦する「正義の石」と名付けられた石を持って経済学者の自宅前に集まる人々だった。この石は、ゼンアクによって「悪」を罰するための合法的な道具とされていた。その瞬間、一部の市民が内心で疑問や違和感を覚えた。しかし、ゼンアクが提示する「悪」に対する合理的な説明と罰則提案が流れると、その疑問はほとんどの市民にとって払拭されてしまい、その感情を表に出すことはできなかった。

その夜は十月でありながら、気温は三十五度を下回ることはなかった。この不自然な暑さは、新東京市管理区が都市化とAI整備の影響で気温が上昇している現象と、暴徒の熱気が高まる事態を暗に象徴していた。市民たちは怒りと興奮に身を任せ、経済学者の自宅前に集まっていた。
怒号と野次が夜空に響き渡る中、市民たちはゼンアクが推薦した「正義の石」を手に握り締めた。

経済学者が家から出てきた瞬間、その怒号は一層高まり、石が次々と彼の体に打ち付けられた。彼は痛みに身をよじりながら何かを叫ぼうとしたが、その声は怒号に呑みこまれた。その場で、彼の額に「正義の石」が直撃した。彼はその場で倒れ、血を流しながらも何かを叫ぼうとしたが、その声は誰にも届かず、そのか細い祈りが彼の最期の言葉となった。遠くから、彼の残された子供の悲痛な泣き声が聞こえてきたが、その声も怒号と喧噪に掻き消され、市民たちは何も感じることなく家路についた。

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