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大津市の「真野」の地名の由来について  【前編】(過去ブログからの転載記事。保存用)

▮ 「真野」の地名の3つの説

「真野」という地名の由来についてです。
 これについては諸説あり、大きくまとめると次の通りです。

「1」豪族・真野臣 由来説
「2」孝昭天皇(御真津日子訶恵志泥命)由来説
「3」景観 由来説 
 それぞれ自分なりの私見を交えながら検証をしたいと思います。

▮「1」豪族・真野臣 由来説

古代豪族に「真野 臣(まの・おみ)」がいました。この「真野 臣」にちなみ、その居住地である当地が「真野」と名付けられたのではないかという考え方です。

 初代「真野 臣」は、和珥部臣鳥 務大肆忍勝 です。
 西暦815年、嵯峨天皇の命によって編纂された古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」に、真野臣について記載された部分があります。

眞野臣
 天足彦国押人命三世孫彦國葺命之後也。男 大口納命。男 難波宿禰。男 大矢田宿禰。従氣長足姫皇尊[贈神功。]征伐新羅。凱旋之日。便留為鎮守将軍。干時娶彼國王猶榻之女。生二男。二男兄 佐久命。次 武義命。佐久命九世孫和珥部臣鳥。務大肆忍勝等。居住近江國志賀郡眞野村。庚寅年負眞野臣姓也。

藤井による現代訳
 第5代孝昭大王の皇子であった、天足彦国押人命(あめたらしひこ くにおしひとのみこと)の三世代目に当たる彦國葺命(ひこくにぶくのみこと)の後裔である。
 彦國葺命の子に大口納命、その子が難波宿禰、さらにその子が大矢田宿禰である。難波宿禰、大矢田宿禰は(高穴穂宮朝期に仲哀天皇妃であった)神功皇后の新羅遠征に従い、大矢田宿禰は凱旋の日に鎮守将軍となって現地に留まった。その時、新羅の国王である猶榻の娘を娶り、二人の男を生んだ。一人は兄の佐久命であり、もう一人は弟の武義命である。この佐久命の9世代目が「和珥部臣鳥(わにべおみ とり」や、「務大肆 忍勝(むたいし おしかつ)」などである。
 彼らは近江国志賀郡にある真野村に住んでいた。庚寅年(西暦690年)、真野臣の姓を与えられたのである。

以上の記述から分かることは、真野臣が与えられる前に、「真野村」があったということです。真野村という地名が先にあって、その場所に住んだ「和珥部臣鳥」らに、姓・真野臣が与えられたという順序だと考えて問題ないと思います。

 周辺知識としては、壬申の乱(672年)で大海人皇子の舎人であり、湖東戦線で活躍した「和珥部臣君手(わにべのおみきみで)」が挙げられます。すでに渡来系名である「和邇氏」はその主流が倭言葉から生まれた「春日氏(大春日朝臣)」に移っておりましたが、和珥部臣に和邇の名前が残っています。
 和邇(丸邇)は製鉄技術を持っていたとされていますが、もともとは漁労民族と考えられており、仲哀天皇期から推古天皇の兄である敏達天皇の代まで継続的に妃(シャーマン・巫女)を嫁がせていました。しかし、当時の近代化により政祭一致(妃の占いで大王が政治を司る)の政治行政スタイルが古臭く感じられ、天智天武期には律令政治が主流になるにつれて、和邇氏本流は大春日朝臣や官僚を多く輩出した小野朝臣に分かれ、和邇氏から派生した和珥部臣は漁労技術を生かし大型河川で付近での採漁や水運を担っていたと考えられています。
 和珥部臣は、壬申の乱において君手が同族がいた尾張知多方面(愛知)や美濃(岐阜)で、大海人皇子(天武天皇)の兵力集めにも尽力しています。
 
 この和珥部臣君手の子(和珥部臣大石?)は近江国志賀郡司を務めていたとされていますが、君手が亡くなった際に、壬申の功臣であったとして官位を授けられています。
 「和珥部臣鳥」は、和珥部臣君手や大石とは同族であったものと思われますが、「鳥」の兄弟か息子と推定される「務大肆 忍勝」は、天武期(685年)にそれまでの冠位二十六階を改め、冠位四十八階が定められたが、その冠位の上から数えて31階目に位置する「務大肆」であり、「君手」が贈られた「直大壱(上から9階目)」と比べると、大きな格差があります。
 真野臣が「和珥部鳥」らに与えられた690年は、天武天皇が亡くなり4年後、その妃である持統天皇が即位した年になりますが、701年に制定される大宝律令に象徴されるようにそれまでの国づくりを改めようとしていた時期に当たります。地方豪族(和珥部など)を居住地域に土着させ(逆に言うと官僚による中央集権化を進める)る政策の一環で、その地域の名称を姓として与えたのではないかと私は思います。

 ちなみに志賀郡は和邇氏系氏族が全体的に管掌していたそうですが、6世紀以降、真野郷に和邇氏系氏族が集められ、それ以外の地(坂本以南)に渡来人(大伴氏、錦織村主など)を住まわせたとされています。
 真野郷という名称が近江大津宮(大津京)期に、すでに定着していたことを考慮すると、やはり、「真野」という地名は、真野臣が住む前に既に付いていた名称だと考えていいように思います。

▮「2」孝昭天皇(御真津日子訶恵志泥命)由来説

 この説は、国語学者で京都学派重鎮の吉田金彦氏(現 姫路獨協大学名誉教授)が、1984年5月27日 京都新聞「古代地名を歩くシリーズ」で書いたところに依ります。以下、当時の新聞記事からの転載です。

琵琶湖大橋を渡って西へ歩くと、そこは真野町である。マノ、真野ー読んでも書いても、実によい名前だ。古代の有力な豪族和珥氏の氏族・真野氏が支配していた所だったから、ここが真野となったものだ。が、それも遡れば、ここの式内社、神田神社の摂社のご祭神が、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)ということを考えると、マノ(真野)はミマツ(御真津)に因んでいる語であるらしい。マツ(真津)がマノ(真野)に言い換えられている。
 というのは、堅田が発達する以前は、この真野こそが水陸交通の要衝として栄えた土地だったからである。古代の真野は中央を流れる真野川が肥沃なデルタ地帯を形成し、水害の少ない湿田低地帯だったが、それが美称のマノ(真野)と言われるようになったのは、マツ(真津)という古名があったからだと推定される。それだけにここは、重要な渡し場だったのである。
 マノ(真野)は全国的に多い地名で、たいてい古い土地が多い。<中略>「真野」と書くので本当の原野だとか、人手の加わらない野とかに見る考えもあるが、マは美称でその土地の由緒のあることを伝え、その土地を良い土地として称える語、それがマノ(真野)なのである。<以下略>
 (京都新聞 昭和59年5月27日記事より)

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 そもそもの話。
 第5代天皇・孝昭大王(御真津日子訶恵志泥命)は、欠史8代のうちにあり、系譜しか記紀に記載がなくその実在が疑われています。古事記が712年(壬申の乱で活躍した多氏後裔の太氏が編纂)、日本書紀が720年(天武天皇の子の舎人親王が撰者)に作られており、この時代には「御真津日子訶恵志泥命」(日本書紀では、観松彦香殖稲天皇)という名が一般化されていたと言えますが、いつの時代に「御真津・・・」という名前があったのかは不明です。

 しかし、先述したように、真野臣を与えられた「和珥部臣鳥」らの祖先で最も皇統に近かったのが、第5代の孝昭大王(御真津日子訶恵志泥命)だったわけで、順序から考えると、和珥部臣がこの地(マノ)に住む前から、この地は「眞野(村)」と呼ばれていたことから、「真津」から「真野」に言い換えられたという由来説は、スムーズではないように思われます。つまり、和珥部臣やその祖先である御真津日子訶恵志泥命は、地名とは関係ないのではないかと考えられます。

 また、和邇氏とゆかりが深い奈良県天理市和爾町の「和爾下神社」の祭神は、素盞鳴命、大己貴命、櫛稲田姫命の3柱(江戸時代は、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、若宮難波根子武振熊命(難波宿禰)の4柱という記録あり)であり、「和邇坐赤坂比古神社」の祭神は、阿田賀田須命と市杵嶋比賣命の2柱で、いずれの神社でも素盞鳴命や天足彦国押人命、彦国葺命など和邇氏の祖は祀られているもの、御真津日子訶恵志泥命(孝昭大王)は含まれていません。
 古墳時代から飛鳥時代、奈良時代の当時、和邇氏系氏族における「御真津日子訶恵志泥命(孝昭大王)」の立ち位置というのは、素盞鳴命、天足彦国押人命や彦国葺命らに比べて、若干距離があったのではないかと考えられます。

 ただし、この「御真津日子訶恵志泥命」由来説も、必ずしも間違っているとも言い切れないので、次の由来説を考えていく中で、総合的に検証していこうと思います。

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◇藤井 哲也(ふじい・てつや)
株式会社パブリックX 代表取締役/SOCIALX.inc ボードメンバー
1978年10月生まれ、滋賀県大津市出身の43歳。2003年に雇用労政問題に取り組むべく会社設立。職業訓練校運営、人事組織コンサルティングや官公庁の就労支援事業の受託等に取り組む。2011年に政治行政領域に活動の幅を広げ、地方議員として地方の産業・労働政策の企画立案などに取り組む。東京での政策ロビイング活動や地方自治体の政策立案コンサルティングを経て、2020年に京都で第二創業。京都大学公共政策大学院修了(MPP)。日本労務学会所属。議会マニフェスト大賞グランプリ受賞。グッドデザイン賞受賞。



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