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「フィンドホーンにいたときのこと 旅の歌の思い出」

劇団四季を逃げるようにやめて、イギリスに住んでいた時の事。帰らなければならない時が迫っていたというのに、どうしても行きたいところがあった。

「Findhorn」という、ブリテン島の北、スコットランドの果てにある、人口100人ほどのエコビレッジだ。

そこには「Work is love in action」という標語のもとに、世界中から人が集まってきていた。

彼らは、多かれ、少なかれ、皆心に何かを抱えていたのかもしれない。それが明らかになる人もならない人もいた。
当時の私は、完全に自分を見失って、日本に帰ってから何をしたらいいのか、何をしたいのかがわからなかったし、世界の事を憂いて自分がどう生きたらいいかわからなくなってしまった20歳の男の子や、ずっと病院で働いてきて、疲れてしまったと話す人もいた。妻を裏切ってしまった(たぶん不倫)と涙を流す男性もいれば、離婚で子供との間に溝を抱えてしまった女性、笑顔のキュートな軍人の女性もいた。国籍も様々だ。スペイン、ポルトガル、フランス、ハンガリー、オランダ、ドイツ、アメリカ、カナダ、ブラジル…年齢も、20歳から70代まで。これだけ様々な人々が、英語を共通語に(私の英語はかなり怪しかったけれど)共同生活をする。仕事は、コミュニティの運営。畑の世話をしたり、みんなの食事を作ったり、掃除をしたり、リネンの洗濯をしたり。みんながやりたい仕事に就く。それでも、何かの仕事に、人が殺到したり、人手が足りなくなったりする事態は起こらない。

コミュニティの朝は瞑想から始まる。午前は働き、午後は、それぞれのワークを行う。ワークショップだったり、自分を見つめるゲームだったり、フィンドホーンに長くいる長老のような方と話をしたり。ただただ、ブランコに乗って声をあげたり。ホットタブ、というもう使われていないウィスキーバレルの中にお湯を満たして森の中で露天風呂を楽しんだり、美しい海岸を散歩したり。

夜には、満点の星が広い空いっぱいに広がっていた。

そんな場所で、私は、何度か歌う機会を得た。

一度目は、みんなで夜に抜け出して、ピアノのあるホールに集まった時。私は"You raise me up"を歌った。その場にふさわしい気がしたし、みんな知っているし、知らなくても、英語の歌詞だから伝わりやすいのではないかと考えたのだ。その場にいた5人は、ただだまってじっと聞いてくれて、終わったあと、とてもほめてくれた。一人は静かに自作のピアノ曲を弾き始め、私はそれにあわせて踊った。他のメンバーも思い思いに過ごした。言葉は通じないけれど(しつこいようだけれど私の英語力はこの素晴らしい体験を言葉で共有するには不十分だった)家族のような、とても愛しくて懐かしくて安心できる仲間たち。

二度目は、ディナーの時間にそれぞれの国の国家を披露する流れになったとき。兵役を終えてから来たというハンガリーの男の子は顔を真っ赤にして恥ずかしそうに歌っていた。フランス人は「ラ・マルセイエーズは暴力的な歌だから嫌だ」と歌わなかった。そして、私は、日本の国家を歌ってほしいと言われたとき、グループにもうひとりいた日本人と「君が代を歌う?」「君が代は、国際的にやばいかもしれないから、さくらさくらにしよう」と話し合ってさくらさくらを歌った。(この話は後日談があるのだけれど、またの機会に)

それから、私は「歌う人」と思われるようになった。或る晩、何人かのメンバーの最終日、何か歌ってほしいと言われ、"I dreamed a dream"を日本語で歌った。皆、レミゼラブルは知っていたので、日本語にもかかわらず、すごく喜んでくれた。私の苦手な「あなたはプロの歌手なのか」という質問をされたかどうか、今ではもう覚えていないけれど、とにかく歌を歌うという事を通して、私はインターナショナルな場所で、自分の居場所を、「歌手」であるという地位を、実力で(?)手に入れたのだった。

歌うチャンスは翌週にもやってきた。その場所にある唯一のカフェのイベントで、私は、「いつも何度でも」を歌った。その時の私は吐きそうなぐらい緊張していた。歌い終えて、がちがちになって震えている私に、家族になった仲間の一人が、白ワインをごちそうしてくれた。私は、一気飲みした。そのぐらい、どうしようもない緊張だった。歌う事がとても怖かった。

歌は大成功で、皆とても喜んでくれた。私はしばらくして、酔いが回ってから、とても幸せな気持ちになった。

歌を歌う事が私とその場を、そして人々を結び付けてくれた。8年経った今でも、彼らの事を懐かしく思い出す。あの時、心のままに歌ってよかった。歌う事を通して、私は大切なつながりを作れたのではないか。ら彼らとFacebookでつながっている事に、感謝があふれる。愛しい仲間たち。同じ地球を生きる仲間たちが、今もどこかで息をしている。何人かには子供が生まれたり、癌の闘病を乗り越えたりもしていた。家族の誕生日を祝っている写真が時折流れてきたり、Likeを押しあったりすることがとても嬉しい。きっと、もう一度彼らに会える確率のほうが低いだろう。でも心には幸せな気持ちが残っている。彼らの笑顔が、彼らと踊った楽しい気持ちが残っている。きっとそれでいい。そんな時間を出来るだけ多く味わう事が、人生を生きる意味だとしたら、私はやっぱり歌い続けていくしかないのかもしれない。

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