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北前船の起点 住吉大社と天保山 信仰に支えられた経済活動

 住吉大社は熊野古道を歩く途中立ち寄った。古道は住吉大社の東にあり、裏口から参拝する形になった。
 今回、住吉大社が北前船と深い関係があると聞いて再訪することにした。

住友の基礎をつくった江戸時代の銅産業

20210921住吉大社駅住友燈籠 (1 - 2)

 南海電鉄の住吉大社駅をおりると住吉大社正面の参道だ。「住友燈籠」という石灯籠が並んでいる。。江戸時代の大坂は銅の精錬や銅貿易の中心であり、その中核が住友家だった。銅は愛媛の別子銅山から運ばれてきていた。
 別子は2002年から2005年にかけて何度も取材で通った。日本一小さい村で人口200人台。2003年に新居浜市に吸収合併された。
 銅山の最盛期には急峻な山の斜面に1万人以上の人が住んでいた。鉱山労働者の入る風呂は戦後になっても混浴だった。戦前戦中は朝鮮人が強制的に働かせられ、あまりのつらさに逃げ出すと、鉱山の警備員が瀬戸内海側の駅で待ち伏せて捕まえた。そんな話を元警備員の男性から聞いた。

経済活動を示す石灯籠群

20210921住吉大社石灯籠 (17 - 21)

住吉大社には、さらに巨大な石燈籠が林立している。ひときわ大きな燈籠には「干鰯仲間」と刻まれている。イワシの肥料は綿花の生産を支えた。イワシが足りなくなると、蝦夷地の鰊粕が北前船で運ばれルようになった。干鰯じたいは、たとえば能登半島では昭和30年代までつくられていた。
 石灯籠には海運関係者と思われる「藝州廻船中」「藝州廻船中」「積荷問屋大坂屋藤左衛門」「土州船問屋」「同盟保険會」といった文字も刻まれている。
 そのほか、「材木小問屋組」「灰屋株仲間」「茶船仲」「絞油屋仲間」「薪仲買仲間」「大坂鐵請問屋中、大坂鐵積問屋中、大坂釘鐵問屋中」「呉服古着商」「材木商人中」「三十石船中 伏見方」「材木大問屋」「油屋中」「藍屋中」「翫物商住吉常夜石灯籠」(おもちゃの業者)「塗師仲間」(天保7年)といったさまざまな業種が競って寄進している。石灯籠の数は600基にのぼるという。当時の産業の種類やひろがりがよくわかる。
 余裕がある金持ちが寄進したというレベルではなく、みながこぞって立てている。現在では宗教と経済は無関係と考えられているが、昔は信仰と経済は密接に結びついていた。近江商人が「三方よし」を掲げて、私利私欲をおさえながら経済活動に邁進できたのは、働くことと禁欲を促す仏教の教えがあったからだ。ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が書いているように、むしろ信仰が経済活動の基盤になったと考えるべきなのだろう。

20210921住吉大社反橋 (1 - 1)-2

 熊野古道を歩いているときは、石灯籠などまったく目に入らなかった。そこに「ある」ものは一緒でも、見ようという関心や意思がなければなにも見えてこないのだ。

終着駅は木津川と安治川河口

20210921住吉大社高燈籠 (2 - 5)

 せっかくだから北前船の終着駅まで歩くことにした。昔の淀川の河口にあたる、安治川と木津川河口だ。
 住吉大社から海側にちょっと歩くと高さ21メートルの「高灯籠」がある。
 鎌倉時代にルーツをもつ「日本最古の灯台」という。江戸時代に建てられた高さ16メートルの木造高燈籠は戦後まで残っていたが、1950年のジェーン台風で倒壊した。現在の鉄筋コンクリートの高灯籠は1974年に再建された。2005年には史料館として公開された。
 今は海は遠くなり、マンションの下に埋没している。
 住宅や倉庫、工場がいりまじる町を歩く。昔このへんにつきあっている子がいて、当時住んでいた西宮から20キロ以上の道のりを往復していたのを思いだす。

20210921木津川千本松大橋 (3 - 7)

 南津守公園を経て、ループ状の千松大橋で木津川の河口を渡る。船がくぐるから橋が高いのだ。橋からは生駒や金剛の山々や、梅田周辺のビル街、あべのハルカスなどを見渡せる。湾奥の河口は北前船の終着駅にふさわしい。

 渡り終えると大正区の「南恩加島」だ。沖縄出身者が多い大正区は海に突き出た半島のような場所だと認識していたが、反対から渡ると、のっぺりとだだっ広い埋め立て地で、道が広く、トレーラーやダンプが轟音をたてて行き来している。
 工場が多く殺風景で、蒸し暑い条件の悪い低地に、高度経済成長期に沖縄出身者が集まってきた。今も、沖縄料理店があちこちに点在し、夜になると三線の音が響いてくる。

20210921なみはや大橋で港区へ (3 - 9)

 次の橋で海を渡ると、工業地帯と貨物船を一望できる。「近江産業」という工場は近江商人と関係があるのだろう。北前船や近江商人というキーワードをもとに散歩すると、殺風景な工業地帯を歩くのもおもしろい。

20210921築港赤レンガ倉庫 (7 - 7)

 橋を渡り終えると港区に入り、北海道・小樽で見たような赤煉瓦の倉庫があった。小樽は経済の発展が止まったから赤れんがや石造りの倉庫群が残った。大阪は経済の動きが早すぎて、ほとんど消えてしまった。わずかに残った建物群がなつかしい。
 まもなく安治川の河口沿いの天保山跡に着いた。住吉大社から9キロだった。

浚渫土砂の山

20210921安治川渡船 (2 - 15)

 天保2年(1831)、当時は淀川の本流だった安治川の土砂を大量に浚渫した。洪水防止と市中への大型船往来を容易にするためだった。その土砂を積み上げた高さ20メートルの山は「目印山」と呼ばれ、安治川入港の目印とされた。いつしか「天保山」と呼ばれるようになった。生駒や金剛、比叡山、四国、淡路までみわたせる景勝の地だったという。
 お台場(砲台)をつくるために山は削られ、現在は標高4.53メートル。日本一低い山(三角点のある山)と称している(実際は2番目らしい)。」

20210921天保山へ (3 - 10)

 住吉大社と天保山って、電車を乗り継ぐと1時間近くかかるが、徒歩ではわずか2時間だった。船で海上を一直線に突っ切ればさらに早かろう。実際に歩くと、北前船の船主たちにとって住吉大社がごく身近な存在だったことがよくわかる。

20210921安治川渡船 (7 - 15)

 台場跡から安治川を渡る無料の渡船に乗った。川風が涼しい。この河口に数十艘、数百艘の北前船がつながれていた。江差の繁栄も驚きだったけど大阪はそれをはるかに上まわる日本最大の拠点だった。春ここから出発して秋にもどってきた船乗りたちは、都会の灯に胸を躍らせたことだろう。

20210921安治川渡船 (4 - 15)

 対岸に渡るとUSJがある。近所に住んでいるのにいまだ入ったことがない。一生入場しないだろうな。

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