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西廻り航路の起点・酒田にのこる北前船の記憶

 酒田市をはじめて意識したの1774軒が丸焼けになったという1976年の酒田の大火だった。その後、防災対策で道路を広くしすぎて殺風景な街になった、と聞いていたから、街を歩く気になれず、いつも素通りしていた。今回は「北前船」の痕跡をたずねることにした。

北前船でかせぎ、土地に投資

 市役所駐車場に車をおき、工事中の「鐙屋」をながめてから本間家旧本邸(見学料900円)を見学した。
 間口が幅33.6メートルもある巨大な屋敷は、書院造りの武家屋敷と商家造りが一体になっている。3代目の本間光丘が1768年、幕府の巡見使宿舎として建築し、藩に献上した。明治から1945年までは本間家の本宅としてつかわれ、1949から76年までは公民館になった。

本間家の「御店」

 道路の反対側の別館「御店(おたな)」には1813年につくられた庭園がある。江戸時代は藩主のお休み処だった。明治から昭和にかけては酒田の迎賓館としてつかわれた。
 北前船で財をなして、保険会社や海運会社などをおこした例は多いが、本間家はビジネスではなく土地に投資した。最盛期には田畑だけで東京都板橋区とほぼおなじ30平方キロを所有し「日本一の大地主」とよばれた。「武士」の身分をみとめられ、光丘は、四郎三郎光丘という武士名と庄五郎という商人名をもっていた。
 本間家は鎌倉時代に相模から佐渡にはいり、その分家が16世紀に酒田にやってきて、1689年に「新潟屋」の名で商売をはじめる。大阪や京都から染物や金物などを仕入れ、米を売った。もうけた金で農地を買うことが家訓だった。海岸に防砂林もつくった。光丘をついだ4代目は6隻の「本間船」を建造し蝦夷と交易する北前船も手がける。明治になると6代目が「本間農場」をつくり、育英会を創設して人材育成にも力をいれた。
 戦後の農地改革で1750ヘクタールあった農地を手ばなすことになり、農地は4ヘクタールだけこされた。農地以外にも膨大な不動産があるから、それらを管理する不動産会社を今は経営しているという。

海運の拠点・酒田の繁栄しめす山居倉庫

 本間家から300メートル南西に歩くと新井田川にでる。対岸の川沿いには三角屋根の白壁の倉庫が12棟ならんでいる。屋形船がうかぶ川にむかって倉庫から船をおろすスロープがある。国史跡の山居倉庫だ。

 最上川と、その河口にながれる新井田川の中洲「山居島」につくられたからその名がつけられた。2万2500平方メートルの敷地に、120坪の倉庫11棟と137坪の倉庫1棟がならぶ。屋根が二重になっているのは、土蔵の温度が上がらないようにするためだ。今も農協が倉庫として活用している。
 倉庫の裏側(西)には41本のケヤキの並木があり、黄色い葉がハラハラと舞いおちる。日本海からの強風と、夏の西日の直射をさえぎるために植えられた。

 酒田の発展は「西廻り航路」からはじまる。
 幕府の命をうけた豪商・河村瑞賢は1672年、出羽国(山形・秋田)の天領の年貢米を酒田から瀬戸内海や大坂をへて江戸まではこぶ航路をひらいた。敦賀で陸揚げして琵琶湖を経由する従来ルートよりはるかに安価に安全にはこべるようになった。日本海の諸藩もこの航路を利用するようになり、航路の基点である酒田の家数は、1656年に1277戸だったのが航路開設11年後の1683年には2251戸に倍増した。その後、この航路をつかって蝦夷地(北海道)と大坂を行き来する北前船の時代が到来した。

 明治の地租改正によって年貢から金納になると米の品質が落ちた。庄内米の将来に危機感をいだいた旧藩主の酒井家や本間家などの商人が1886(明治19)年に「酒田米商会所」、26年に「米穀取引所」を設立した。倉庫群はその倉庫として整備された。現在は、明治26年の6棟と、1916(大正5)年までにつくられた6棟などがのこっている。

 倉庫ができた当時は酒田に集積した米は船で大阪などにはこばれたが、1914(大正3)年に陸羽西線が開通し、鉄道で東京方面にはこばれるようになった。

常夜灯や木造灯台がのこる日和山

 山居住倉庫から1.5キロほど海にむかってくだった高台が「日和山」の公園だ。最上川の河口が一望できて、「常夜灯」がのこっている。沖には飛島ものぞめる。北前船の時代、この山にのぼって沖を観察し、出港するか否かをきめたのだ。最上川は斎藤茂吉や「おしん」のイメージが強烈で子どものころから一度は見たい川だった。

 六角形の白い「六角灯台」は1895(明治28)年に対岸にたてられ、その後北岸にうつされ、近代灯台が完成してここに移築保存された。明治の木造建築では日本最古の灯台のひとつらしい。公園には河村瑞賢の像がたち、千石船の1/2サイズの千石船が池にうかんでいる。

光丘文庫

 山側の日枝神社(山王さん)の鳥居は、ふつうの鳥居の上に三角形の屋根がのっている。
 境内には大川周明の碑がある。酒田出身とは知らなかった。碑には「アジア植民地解放の父」ときざまれている。そう評価してよい人なのだろうか?
 旧光丘文庫本館は、本間家が蔵書1万冊と建設費5万円と維持のための基金を寄付して1925年に開館した。酒田初の鉄筋コンクリート建造物で、1982年までは市立図書館として利用された。老朽化のため2016年に閉鎖された。市の文化財に指定されているが、このまま朽ちてしまうのではないだろうか。

 神社から海とは反対の街側におりると、「山王クラブ」という元料亭がある。入場料が高いからスルーした。

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